未来の自分自身に向けた覚え書き

【建築に刻まれた文字】

五、六年まえのことだが、この物語の作者がノートル=ダム大聖堂を訪れたとき――いや、さぐりまわったときと言ったほうがいいかもしれないが――、作者は、塔の暗い片隅の壁に、つぎのようなことばが刻みつけられているのを見つけたのである。
ΑΝΑΓΚΗ(宿命)
年を経て黒くなり、壁石にかなり深く彫りこまれたこのギリシア語の大文字、中世の人間が書いたことを示しているかのような、文字の形やたたずまいにみられるゴチックの筆法に特有ななんともいえない風格、ことにその文字が表わしている悲痛で不吉な意味、こうしたものに作者は激しく胸を打たれたのである。
私はいぶかった、解き当ててみようとつとめた、この古い聖堂のひたいに、罪悪か不幸かを表すこのような烙印を残さずにはこの世を去っていけなかったほどの苦しみを味わったのは、いったいどんな人間だったのだろうか、と。
その後、あの壁は塗料を塗られるか、よごれをけずり落とされるかして(そのどちらだったか、私にももうわからないが)あの文字も見えなくなってしまった。中世の素晴らしい教会はおよそ二百年来、みなこんなふうに扱われてきたのである。毀損の手は、内からも外からも、あらゆる方法から、こうした建物に襲いかかってくるのだ。聖職者が塗りたくり、建築家がけずり落とし、つぎには民衆が襲いかかって、打ちこわしてしまうのである。
こういうわけで、この物語の作者がここに捧げるはかない思い出のほかには、ノートル=ダムのあの暗い塔に刻まれていた不思議なことばにかかわりのあるもの、あのことばがあれほどわびしげにひとことで表わしていた見知らぬ人間の運命を物語るものは、いまはもう何ひとつ残っていない。あのことばをあの壁に書きつけた人間は、何世紀もまえに世代の波間に消えてしまったし、あのことばも、その後聖堂の壁から消え失せてしまった。聖堂そのものも、そのうちには、おそらくこの地上から消えさることであろう。
この物語はあの不思議なことばから生まれたのである。(9ページ)

【キマイラ、負傷した身体としての大聖堂】

フランスの大聖堂の中での女王とも呼べるこの大聖堂の顔面には、しわと並んで必ず傷あとが見られる。「時はかじるが、人はなおひどくかじる」私はオウィディウスのこの句をこう訳してみたいような気がする。「時は無分別だが、人は愚かだ」もし私に暇があって、みなさんといっしょに、この古い教会に加えられたさまざまな破壊の跡をひとつひとつ調べていったならば、破壊に対して「時」が果たした役割はごくわずかなものであり、それより悪いのは人間、ことに芸術家であったことがおわかりになるであろう。(110ページ)

あの鐘楼はどうなってしまったのだろう?ある趣味のよい建築家があっさりちょん切ってしまって(1787年のことだ)、その傷あとにまるで鍋のふたみたいな大きな鉛の膏薬をべったりはりつけ、さて、これで傷口はかくせたと安心してしまったのだ。[…]流行は革命よりももっと大きな害悪をおよぼした。[…]流行はずうずうしくも、「よい趣味」を看板にして、ゴチック建築の傷口にその日かぎりの情けない安ぴか物だの、大理石のリボン形飾りだの、金属の房飾りだのをはりつけたのだ。[…]この建築の表皮にしわだの、いぼだのをつくったのは、「時」のしわざだし、この芸術に暴行だの蛮行だのを加えて打撲傷だの骨折だのをつくったのは、ルターからミラボーにいたるまでのいろいろな革命のやった仕事なのである。切断や切除や手足の脱臼、つまり「修復」は、ウィトルウィウスやヴィニョーラの流れをくむ先生がたのギリシア式か、野蛮式かの作業の結果なのだ。ヴァンダル族が生み出した素晴らしい芸術をアカデミー派の先生がたが殺してしまったのである。(112-114ページ)

パリの古い教会の中心となり母体となったこの大聖堂は、一種の噴火獣[ルビ:キマイラ]のようなものだ。この教会の頭、あの教会の手足、また別の教会の尻、といったぐあいに、あらゆるもののいくらかずつを備えているのである。[…]大きな建築物は、大きな山みたいなもので、何世紀もかかってできあがるものだ。建物がまだできあがっていないのに、つまり「工事が中止されている」あいだに、芸術が変わってしまうことがよくある。建築は、変化をとげた芸術に従って黙々とつづけられていく。新しい芸術は、古い芸術の手でつくられた建物を未完成のまま譲りうけ、自分の流儀で好きなように手を加え、それを自己に同化し、発展させ、できれば仕上げてしまう。そして、こうした改革は自然で静かな法則に従い、混乱も、努力も、反動もなしに、なしとげられる。つぎ木がつき、樹液が循環し、ふたたび生長がはじまるのだ。ひとつの建築物の上に、いくつもの高さに、いくつもの芸術がつぎつぎと継ぎ足されていくこの種の溶接作業を検討してみたならば、たしかに、とても大きな本を何冊も書いたり、ときには世界史を書きあげたりするだけの材料が見いだされるのだ。[…]要するに「時」は建築家であり、民衆は石工なのだ。(116-117ページ)

オリエントの大きな石造建築物の妹分であるキリスト教ヨーロッパの建築だけをここでは見ることにしても、われわれにはこの建築がつぎつぎに積み重なった、継ぎ目のはっきりした三つの層に分けられる巨大な構成体であることがわかるのである。つまりロマネスク層、ゴチック層、ルネサンス層だ、最後の層を私はギリシア=ローマ層と呼びたいのだが。(117ページ)

ところで、こうしたおもむろな変化や差異はみな、ただ建物の表面だけに現れているにすぎない。芸術の表皮が変わっただけなのだ。キリスト教の教会の構造自体は変化をこうむることはなかったのである。内部の骨組も各部分の論理的構成も昔からずっと同じなのだ。大聖堂の彫刻や装飾をほどこした表皮がたとえどのように変化しようとも、一枚めくれば下には必ずローマ風のバジリカ会堂が認められる。(118ページ)

【地下室という内奥】

中世においては、建築物が完全にできあがった、というときには、地上にある部分とほとんど同じだけのものが地下にあったのである。たとえばノートル=ダムのように基杭の上に建てられているものをのぞけば、宮殿でも、城塞でも、教会でも、みなかならず二重の底を持っていた。大聖堂についていえば、光が溢れ、昼となく夜となくオルガンと鐘の音が響きわたる地上の本堂の下に、低く、暗い、神秘的な、目もなければ声も出さない、いわばもう一つの大聖堂があったのである。ときには、これが墓であることもあった。宮殿や、城砦の場合には牢獄であった。が、ときによってはまた、これが墓であることもあり、また二つを兼ねていることもあった。[…]これらは単に基礎工事があるというのではなくて、いわば根をもっているようなもので、その根は地の中にはびこっていて、ちょうど地上の建築物と同じように、部屋ともなり、回廊ともなり、階段ともなっているのである。このように、教会、宮殿、城砦は、いずれも半身を地下にうずめているのだ。ひとつの建築物の地下室は、もうひとつの建築物をなしているのであって、そこでは、人びとは上に登るかわりに、下におりていくのである。(319ぺージ)