ラグジュアリー展とレベッカ・ホルン展(ともに都立現代美術館)に行ってきた。
ラグジュアリー展は、校外実習とおぼしき服飾専門学校生の集団で、大入り満員。学生と引率の教員のやり取りが面白くて、こっそりと耳をそばだててしまう。ロココ時代の過剰に膨らんだスカートや、鳩胸気味のラインを描く胴着など――生身の身体をreinforceするものとしての衣服――を眺めながら、「わたし」の境界線はどこにあるのだろう、と考える。luxuryをカタカナ表記するなら「ラクシャリー」の方が原音に近いと思うが、「ラグジュアリー」が和製ファッション用語として定着してしまっている以上、致し方ないのだろう。これはKCIの売りの一つらしいが、時代や様式によって、マネキンの体型やポーズが異なっている。衣服がそれに似合う身体を欲望するのだ、という風に考えて見て回ると、なかなか面白い。

レベッカ・ホルンは初めて名前を聞くアーティスト。作品のコンセプトを言葉で説明しようとすると、「コンテンポラリーアート」の範疇に収束してしまうのだろうが、オブジェ同士の組合せも、そのキネティックな動きも静謐な美しさをたたえていて、足を運んでよかったと思える展示だった。複数の光源がオブジェの下に作り出している影も美しい。乳白色に光るオウムガイに突っ込まれたブロンズ製の男性器や、向かい合わせに置かれた鏡の上に取り付けられたピストルなど、露骨にセクシュアルであったり、剣呑だったりするオブジェも取り入れられているのだが、作品の回りには不思議と静かなポエジーが漂っている。「身体の拡張」というテーマは、偶然の一致なのだろうか、並行して開催されているラグジュアリー展とも共振していて、印象に残った。

夜、言葉は彷徨い
頭のなかの影のように、
水の大理石の上を滑る。
金の杖が流れを遮り、
流れに逆らって黒い水のなかに文字を書く、
波間から文章を救い出し、
記号の陶酔をかきたてる鏡の透明のなかで。
震えながら言葉は正しい配置につき、
月を見て方向を正しながら、
言葉のドームを組み上げる。
レベッカ・ホルン「鯨の腑の光」都現美パンフレットより)

映像作品も面白そうだったが、長尺のものが複数展示されているため、「過去をつきぬけて」一つしか観ることができなかった。(この種の映像展示は、上映開始とタイミングを合わせるのが難しい。)未見ながら、パンフレットの説明が気になった作品をピックアップしておく。
「ダンス・パートナー」:不在時に部屋を貸す習慣から想を得て、見知らぬ他者同士が、室内に残されたものを介して、断片的に時間と空間を共有する物語(都現美パンフレットより)
「パフォーマンス2」:いずれも知覚の拡張装置を身に着けたホルン、あるいは友人たちが、周囲の空間や他者との関係を模索するパフォーマンスを収録(同上)