都市と建築の解剖学

パリ―都市の記憶を探る (ちくま新書)

パリ―都市の記憶を探る (ちくま新書)

石井洋二郎氏の著作『パリ――都市の記憶を探る――』に、「都市の解剖学」という自分自身のテーマと重なり合いそうな部分を見つけた。

都市はしばしば、人間の身体になぞらえられる。確かにそれは時間とともに成長もすれば、病気になったり老化したりもする一種の有機体であって、その活動は呼吸、咀嚼、摂取、消化、排泄といった、肉体にまつわる一連の比喩をおのずと想起させずにはいない。そして個々の区域はそれぞれ身体器官としての機能を担いつつ合理的に分節され、ひとつの全体を組織している。パリもその例外ではない。大革命前の首都を観察記録したレチフ・ド・ラ・ブルトンヌは『パリの夜』の中で、「フランス的洗練の精髄のような精髄のような地区」であるサン=トノレ通りのことを「パリの頭脳」と呼んでいたし、ゾラは現在フォロム・デ・アルのある場所にかつて存在した中央市場に取材して、その名も『パリの胃袋』というタイトルの小説を書いた。また、メルシエが群衆の蝟集するポン=ヌフを「パリの心臓」と呼んでいたことはすでに第2章で触れたが、この橋が貫いているシテ島それ自体、その位置と形状からしていかにも首都の心臓と呼ばれるに相応しい。[…]もっともこの見立てはほとんど紋切型に近く、オスマンにパリの大改造を命じたナポレオン三世自身、入り組んだ道路を血管とのアナロジーでとらえていたし、その改造事業を大規模な外科手術にたとえたル・コルビュジェの比喩も、やはり同種の類推の上に成り立っている。
(98-99ページ)

目を引くのは、コルビュジェの「外科手術」という表現。都市の諸機能とオルガノンとしての人体との間にアナロジーを見出す発想――これ自体は、筆者も指摘するように「紋切型」のものだろう――を超えて、都市が「病んだ身体」に、都市計画のための工事が表層を切り開き病巣や傷痍を治療する作業に準えられている。
ときには傷や病に冒され得る、不潔でおぞましいものを内包した身体として都市や建築を捉えるという趣向は、ユゴーにおいて顕著である。『ノートルダム・ド・パリ』での古びた聖堂の外壁の描写はその典型だが、『レ・ミゼラブル』にも、パリの下水道を巨大な怪物のはらわたに準えた箇所(第5部第2章)があるという(168ページ)。
個人的には、駅を「待つ」ための場と規定している(180ページ)のも面白いと思った。駅とは空間移動の際の中継地点であり、物事が「過ぎ去って」いくpassagerな場であり、固定的な外壁によって囲繞されていないtransparentな空間だと捉えていたけれど、なるほどそこでは、人々は常に何か(列車かあるいは待ち人か)の到来を「待って」もいるのだ。運動がしばらくのstasisを起こす場と言えるだろうか。