ルーヴルの異邦人


ディジョンのエコール・デ・ボザール出身で、今やフランスを代表する売れっ子アーティストとなったYan Pei-Ming(嚴培明)のエキシビションが、なんとルーヴルで開催中であった。余りにも有名なレオナルドの《モナリザ》を通り過ぎると、突き当りには「モナリザの葬儀(Les funérailles de Monna Lisa)」と題されたMingの展示室が。
     
立て掛けた巨大カンヴァスに、モップ状の絵筆でペイントするという手法のためだろうか、モナリザの顔や手には濃い色の絵の具が垂れて、まるで殉教者の流す血のようだ。(イタリア絵画室を抜けてきた後だから、余計に磔刑図や殉教図を連想してしまうのだろう。)絵の具という物質は、chair(肉)と存在が近いような気がする。

ちなみに、シュリー翼地下、Louvre Médiévalを抜けた所の特別展示室では、現在「Le Louvre invite la bande desinée」と題された展示が行われている。ルーヴルがマンガコレクション形成に着手したのを記念したもので、4人の仏人BD作家に混じり、本邦からも荒木飛呂彦が出品している。展示されている作品は全て、「ルーヴル美術館」をテーマとした描き下ろしのもの。ルーヴル側が用意した説明パネルによれば、M.A. MathieuとN. de Crécyは、ルネサンス期のプレデッラとアナロジー関係で語りうる、イメージの「シークエンス」を見せるもの、E. Libergeはクロッキー(下絵)とタブローの関係を示すもの、B. Yslaireの映像作品はマンガの製作プロセスを動画で展示したもの、そして荒木の作品は、左右両ページに渡る絵を特徴とし、二枚折のシークエンスがなす「書物」の形式に自己言及したものとある。実際、荒木が短いコマに描くのは、人間を書物に化体させその人生を読むという能力を備えた漫画家、岸辺露伴の姿である。
正直なところ、各々の漫画家が「ルーヴル」「美術史」を意識し過ぎて、なんだか予定調和に纏まってしまった感のある展示だった。ルーヴルがマンガを論ずる以上、「プレデッラ」だの「物語絵画のシークエンス」だの、既成の美術史のターミノロジーに回収されてしまうのは仕方ないことかもしれない。しかし、個々の作品までが美術館側の意図を過剰に読み取ってしまった余り、「マンガの現在」が見え難くなってしまった感があるのは残念。
ちなみに、説明パネルは仏・英・日の三か国語併記だったが、日本語のレベルがちょっと酷い。「créer la collection」が「コレクションを制作」になっているし(「形成」やせめて「創造」なら分かるが、コレクションは「制作」するものではないだろう)、読点が二つ重なっている箇所もあった。日本語上級レベルの外国人がネイティヴチェック抜きで訳したのか、それとも美術史・美術館学の用語に不案内な日本人が、やっつけ仕事でやったのか……荒木作品も、セリフ部分の日本語は(おそらくは仏訳された活字が入ることを見越して)鉛筆書きされていたのに、そのままになっていた。私が見たときには、ジャパニメーションオタクと思われる仏人女子二人が必死になって読み上げていたけれど、来館者のほとんどにとっては、読解不能な作品になってしまっていたと思われる。
荒木の絵を見るのは、実はこれが初めて。(何しろ、約1年前まで「ジョジョ」はトッポジージョの仲間みたいなものだろうと勘違いしていたくらいだ。)引き延ばし気味ながらデッサンの正確な身体表現(エル・グレコ的?)に、改めて感動する。一カ所ほどスクリーントーンの剥げかけている部位があって、昨今流行のディジタル処理ではなく、トーンを手貼りしているということにも(無駄に)感動。以前、日仏美術交流の講義中、とある美術史教官が藤田嗣治について妙に熱っぽく語っていたことを思い出す。私にとっての「欧州留学中にナショナリズムが高揚する契機」とは、レオナール藤田でも歌麿北斎でもなく、荒木飛呂彦田亀源五郎であるようだ。先述のフランス美術史教官とは、世代の違いなのか、それとも研究者としての格の違いか。所詮はローブロウなところが、自分の「健全さ」を担保しているのではないかと思ったり思わなかったり。