histoire sans tension, sans chute et sans signification


ボーイッシュで可愛い女の子の表紙(フランスでもファッション誌に引っ張りだこのイギリス人モデル、アギネス・ディーンや、往年のイーディ・セジウィックを思わせる)に惹かれて、特急待ちのMacon Villeのキヨスクでたまたま手に取った雑誌が、今月号の『TÊTU』。中をぱらぱらと捲っていたら(一見、普通の男性向けファッション誌のようなスチール写真が多い)、「Le Yaoi : Manga gay de midinettes(ヤオイ――ミーハー女子のためのゲイマンガ)」と題された記事が。フランス人記者による日本のサブカルチャー論、なんだか面白そうじゃないの、と思って読みはじめた瞬間、『TÊTU』が有名なゲイ専門の雑誌であったことを思い出す。その後逡巡すること20分(狭いキヨスクで何やっているんだろう)、もう電車が来ちゃうよというところで意を決し、「フランス語がろくに出来ないのでファッション雑誌と勘違いしちゃった日本人女性」を装ったつもりで購入。雑誌1冊買うのにもの凄いエネルギーを使い果たした。

ヤオイボーイズラブの分野に関しては、尾崎南秋里和国がメジャーデビューを果たし、また聖闘士聖矢の同人誌出身の高河ゆんが一般向けの漫画市場に出て人気を博し始めた、そんな時期に私はちょうど思春期を過ごしている。当時、私の友人には、この種の「ヤオイ(当時はBLという言葉はまだなかった)」に嵌っている子が多かった。私自身はなんとなく嵌りきらない内に高校受験だ何だで忙しくなり、結局「腐女子」となる機会を失ってしまうのだが、そんな環境もあって「目撃証言」程度にはヤオイについて知っていたりする。
当時の私が今ひとつヤオイ/BLの世界に感情移入することができなかった、その決定的なきっかけは、いちばんディープにヤオイに嵌っていた子が『薔薇族』を購入した後に発した一言だったと思う。「本物のホモの世界ってキレイじゃないね」。私が自腹を切って漫画を購入するまではいかずとも、なんとなくヤオイ的世界に共感を持っていたのは、自分自身が思春期の入口で、自分が性的な存在になること、異性愛の世界へと進入していくべきことに対して、素直に肯定できないものを感じていたから。それに加えて、この年代にありがちな「マイノリティ」に対する憧れや自己投影(俗に言う「中二病」)もあっただろう。それはともかく、二次元にしか存在しえないような美形同士の絡みに自己の欲望をナルシスティックに投影し、ごくごく狭い共同体の中で盛り上がるという図式、それから現実のセクシュアル・マイノリティに対するあまりの無神経さに漠然とした違和感を感じたのである。
ヤオイ」や「受け/攻め」を仏語で適確に説明しつつ、ヤオイ/BLの沿革や受容層についても(おそらく)適切な概略図を示しているこの記事は、かようなヤオイ/BLによる男性同性愛の表象が、現実のゲイたちからは批判を受けていることを指摘するのも忘れていない。
これは自分自身の限られた体験と見聞に基づく印象論でしかないのだが、ヤオイ/BLの世界というのは、結局セクシュアル・マイノリティやキュアの問題ではないと思う。いや、セクシュアリティの問題ですらなくて、まだ現実の性愛の世界に入る以前の思春期の少女たち――TÊTUの記事も、YAOIの主要な受容層は女子中高生であると指摘している――のための、一種のモラトリアムとしての人工楽園なのではないだろうか。記者(Adrien Dixneufとの署名がある)も指摘する通り、そこでは性行為や生殖器はリアルに描写されることはほとんどない。この点で、異性愛の男性のためのレズビアン物AVや、成人女性のための「スラッシュ・フィクション」などとは、つまり完全に性的に成熟した異性愛者を対象とした、リアルな劣情を喚起するための「同性愛モノ」とは、ヤオイ/BLは一線を画すのではないだろうか。(と言っても自分の知識は『絶愛』や『バナナフィッシュ』で止まっているので……近年の動向はまた違うのかもしれない。)そして、ヤオイ/BLの世界に没入していた女子のほとんどが、その後はきわめてnormalな(=規範的な/通常の)異性愛の世界へと参入していく。
今となってはBL漫画も仏訳されて市場に出回っているようだが、最初にBLがフランスに移入された際には、その刊行に対して出版界は大きな抵抗感を持っていたと記事にはある。これも自分の偏狭な印象論でしかないが、フランスでは日本ほどBLが流行ることはないと個人的には思っている。日本の女子中高生は、肉体的には完全に二次性徴を迎えていても、大人たち(両親や教師)によって、性的な存在であることを抑圧され、禁止されている。そういう中で生まれるセクシュアル・アイデンティティへの戸惑いやブレが、BLというモラトリアム的な幻想世界へのコミットメントを生むのではないかと思う。対してフランスの少女たちは、「少女」というよりも「未成熟な女」と言った風体である。思春期をフランスで過ごしたわけでも、彼女たちと腹を割って話したことがあるわけでもないけれど、性的に成熟すること、自分が「女性」であることを受け入れることへの戸惑いは、彼女たちには存在しないのではないかという気がしている。だから、おそらく彼女たちは、BLという人工の楽園など必要としていないだろう。
ヤオイ」論の後には、「Manga Power」と題して、日本の「本気の」ゲイ向け・レズビアン向け漫画が紹介されている。田亀源五郎はフランスでは完全に(ほとんど神格化された)大御所扱いとなっているようだ。
専門知識があるわけでも、論じるための解釈格子を持っているわけでもない分野について、最近やけに饒舌に語っているのは、フランスが妙に高いテンションで(ヘテロの)恋愛を礼賛する社会で――日本でも、バブル期以降マーケティング戦略に煽られる形で恋愛至上主義が浸透した、という指摘がなされているようだけれど――、もとより自分は同性愛者でも、アセクシュアルですらないのだけれど、そういう風潮に対して今ひとつコミットメントできない気持ちが、20年近い歳月の断絶を経てもう一度自分を「同性愛の表象」に向かわせているのかもしれない。フランスではロータリークラブ会員(いわゆるブルジョワ、アッパーミドル、小金持ちと形容される部類の人々)の家庭でさえ、妻は当たり前に(自己実現とかそんな高尚な気負いはなく、ごくごく当然のこととして)働いていて、そう言う意味ではフェミニズムジェンダー・フリーといった概念すら不要なのではないかと思われる社会なのだが、その一方で「une femme est une femme」的な扱いも未だに強固に残っている。それを「情熱的なアムールの国」として礼賛するか、日本とはまた別種の性的な抑圧のある国と見るかは、受け止める側の価値観次第なのだろうけれど。

ちなみにTÊTUのカルチャー欄。日本のバンドPolysicsが写真入りで紹介されている。マルセイユで開催されるMarsatacというフェスティヴァルに、彼らも参加するらしい。

本筋とはあまり関係ないが、上記のヤオイ論で面白いと思ったのが、「受け(reçoit/passif)」はほとんどブロンドヘアであり、「攻め(attaque/actif)」は濃色の髪であるという指摘。キリスト教絵画における「金髪=純潔、聖性/黒髪=誘惑、悪徳」というコードが、ハリウッド映画では逆転して「黒髪=貞潔、知性/金髪=誘惑、性的奔放さ」となった、という話を聞いたことがあるのだが、マンガにおける「髪色」のコードというテーマも、網羅的かつ体系的に分析したら面白いかもしれない。