読了

歴史・レトリック・立証

歴史・レトリック・立証

レポート課題のために再読。歴史記述を虚構(フィクション)の物語記述と等質のものとして捉えるヘイドン・ホワイトらの相対主義を批判し、「レトリック」と「実証」の両立可能性、そして歴史家の採るべき態度を説くもの。
ギンズブルグは、ニーチェに端を発し、ホワイトやロラン・バルト(「歴史のディスクールle discours de l'histoire」1967)に代表される反実証主義的(実証懐疑主義的)な歴史叙述観、それからキケロによる「レトリック」概念を退ける。彼が採用するのは、アリストテレスが提唱する弁論術ー―実証がレトリックの基本的な核をなすーーであり、ベンヤミンーー歴史を逆撫でする(「歴史の概念について」)ーーやロレンツォ・バッラーー雄弁術と近代的歴史批判、レトリックと文献学の共存ーー、フローベールやマルク・ブロックー―ところどころに空隙のあるフィルムを巻き戻す作業に準えられた歴史叙述ーーである。

[方法論的反省と歴史叙述の現場における実践との断絶を前に]わたしがとろうとしている解決策はナレーション(叙述の作業)とドキュメンテーション(資料的裏付けの作業)との緊張関係をそのまま研究の現場に持ち運んでこようというものである。
(3ページ)

資料は実証主義者たちが信じているように開かれた窓でもなければ、懐疑論者たちが主張するように視界をさまたげる壁でもない。いってみれば、それらは歪んだガラスにたとえることができるのだ。ひとつひとつの個別的な資料の個別的な歪みを分析することは、すでにそれ自体構築的な要素をふくんでいる。しかしながら[・・・]構築といってもそれは立証と両立不可能であるわけではない/また、欲望の投射なしには研究はありえないが、それは現実原則が課す拒絶と両立不能であるわけでもないのである。
(48ページ)

わたしは歴史的ナラティヴへの現在流行のアプローチはあまりにも単純すぎるようにおもう。というのも、それは通常、最終的な文学的生産物のみに焦点を当てていて、その生産物を可能にした調査研究を無視しているからである。だが、そうではなくて、わたしたちは注意の眼を最終的成果から準備的諸段階へと移行させ、調査研究の過程それ自体の内部にあって経験的データとナラティヴ上の束縛とのあいだでとりかわされている相互作用を探査してみなければならないのである。
(147ページ)

[マルク・ブロック『フランス農村史の基本性格』序文から、「歴史を後ろ向きに読む」ことを説いた部分の引用]遡及的方法がつかまえたと称しているものはある一篇のフィルムの最後のリールなのであって、これを遡及的方法は、そこにはいくつもの空隙があることを諦めて受け容れつつ、しかしまたそこにうかがわれる変化の動きを尊重する決意を固めて、巻き戻していかなければならないのである。
(147-148ページ_

この一冊を読む限りでは、懐疑主義を否定すべきという命題が、アプリオリに真であるかのように扱われている印象を受けるのだが、その背景にはおそらく、一連の論争の中での反論・再反論の応酬というコンテクストがあるのだろう。ちなみにこの『歴史・レトリック・立証』の後には、『歴史を逆なでに読む』が刊行されている。こちらも併読しておかないと。

歴史を逆なでに読む

歴史を逆なでに読む

さらに厳密を期すなら、ギンズブルグによるホワイトやバルト、アリストテレス等の理解の妥当性も検証するべきだろう。(レポート課題ではそこまで期待されていないと思うけれど。)