Jennifer BloomerのArchitecture and the Text: The (S)crypts of Joyce and Piranesiを読んでいて、目に止まった一節。

ピラネージの建築は汚染されている。それは、仮にアナクロニズムを許容するならキッチュであり、数々の漂積物、整理された物質と未整理の物質「家、容器」によって冒されている。それはキッチュパラドックスについてのメタ記述である。キッチュとは不在の周りに集まるものであるからだ。この中心は言語化しえず、また接近不可能である。なぜなら、それは糞便の――それ以外の何だと言うのだろう――容器、理想的なものの冒涜であるからだ。糞便を執拗に回避すること(avoidence/a-voidence)によって、糞便は焦点、中心と化す。
(pp.100−101)

ブルーマーの記述は終始このような感じで真意を掴みづらいのだが、中でも「キッチュ」がいかなる文脈で使われているのかが気になる。少なくともグリーンバーグが『アヴァンギャルドキッチュ』で言うような「キッチュ」とは違うコノテーションなのは分かるが。

Wikipediaの「キッチュ」の項: 

ブルーマーの趣旨は、ジョイスのテクストとピラネージの(紙上)建築における統辞法や語りの共通性を指摘することにあるらしい。
ただ、ピラネージを同時代性とは切り離された唯一独創的な存在に祭り上げ、後代のアヴァンギャルドとの通底性を指摘するというスタンスは、むしろピラネージ論においては一つの紋切り型になっているようだ。(「モンタージュ」や「アナクロニズム」の強調も然り。)ピラネージの奇天烈さばかりに目を奪われることなく、この時代に隆盛した建築を巡る考古学の中での、連続性と断絶、共通性と特異性を炙り出すような作業が必要だと思う。