二次元上の精確な線が、次第に三次元上の簡略化された量塊へと化していくプロセスが辿れる。彫・塑像の衣服の襞も、最小限の運動性(ないし静止性)を表すものへと抽象化されていく。

  • 芸大コレクション展「大正・昭和前期の美術」(〜5/28)同上

明治期の絵画については、制度史から個々の作品・作家にいたるまで、理論・実証の両面に渡ってかなり研究が進んでいるようだが、大正や昭和前期についての研究はあまり目にしないように思う。大規模な制度や認識の転換が起きたわけでも、分かりやすい「前衛」が登場してきたわけでもないから、そもそも問いを立てるのが難しい時代なのかもしれない。

カリエールの独特の、顔貌が融解し身体が背景に融合する技法について何か得られればと思って出掛けたのだが、あまり得るものはなかった。ロダンとカリエールの対比と言っても、二人の交友関係の存在と、そこに還元され得るモチーフや技法の類似性を指摘するに留まっている。オルセーとの連携と自前のロダン・コレクションを有効活用してみた、という感じだろうか。
ロダンによる彫刻『最後の幻影』には、「カリエールの絵画との結びつきがもっとも明確に示された作品」との説明が付されている。確かに正面から眺めると、白い大理石上に落ちる柔和な陰影や、背景に溶け込むかのような人物の貌など、カリエールの作品と類似しているかのようだ。しかしひとたび側面に回るや、明らかに切り出されたフォルムが、空間の中に明確に浮かび上がる横顔の輪郭線が現われ、境界線の不明確さという契機は消え去ってしまう。また女性の背中のみを描いたカリエールの絵画を見たとき、空間の現象を平面に描写する際の特定の約定に慣れている我々は、深くうなだれた頭が体の陰に隠れているのだということを直ちに理解するだろう。しかし、カリエールと類似の人体表現を採るロダン作品では、正面に回っても頭部は不在のままである。(たとえば、『イリス』と題されたブロンズ。)絵画においては「存在するが隠されている」と了解される不可視の頭部は、彫刻においては端的に「どこにも存在しない」のだ。
同じ人物や類似のポーズ、共通するモチーフに題を採った両者の作品が並置されることで、むしろ絵画と彫刻との間の差異が浮かび上がっているように感じられた。