立教大学タッカーホールで行なわれた、ヴィム・ヴェンダースの講演会へ。

まずはオムニバス映画『テンミニッツオールダー』に収められた、『12 miles from Trona』が流れる。誤って向精神薬入りのクッキーを大量に食べてしまった男が、一人自動車に乗って病院のある街を目指す。意識が薄れ始めたところで、若い女性の運転する車に偶然出くわし、病院まで送り届けてもらう。ヴェンダースお得意の「ロードムービー」なのだが、薬による幻覚と興奮作用のために、主人公の眺める景色は二重化したり歪んだり、あるいは奇妙な運動性を持ち始めたりと、現実と幻想世界との間を往還し始める。フィルムのラストでは、胃洗浄によって意識を取り戻した主人公に、もうすぐ妻が病院へと来ることが告げられる。つまり、主人公は二重の意味で、帰還を――正常な生命活動への、そして日常の生活風景への――果たしたのである。

つづくヴェンダースの講演「Sense of place」は、映画における「土地」の問題について論ずるもの。ロードムービーとは言うまでもなく、複数の場所の間の移動を巡る映像記録であり、そこでは土地(やその風景)は特権的な対象である。自分は「物語」を至上命題とする映画作り――アメリカ映画がその顕著な例だ――にはコミットしない、とヴェンダースは言う。事前に「物語」を用意することはしない。映画の舞台たる「土地」こそが、物語を生起させ、そして導くのである、と。
ヴェンダースによれば、「土地」の喪失こそが映画において失われたものである。「物語」を伝えるための映画では、「場所」の特定が避けられる傾向にあり、つまり「場所」は如何様にも交換可能となる。例えばヴェンダースが『ベルリン・天使の歌』の複製権を譲渡して作られた米映画、『シティ・オブ・エンジェルス』である。それに対してトリュフォーフェリーニにおいては、土地はその映画自体を規定する。(このような土地性は、すなわちヨーロッパ性であるかもしれない、とヴェンダースは規定している。)

ある特定の土地の風景がヴェンダース作品にとって不可欠なのは言うまでもないが、さらには土地を名指す固有名の頻出も、注目すべきモチーフなのではないだろうか。「ベルリン」や「トローナ」、「東京」、「パリ、テキサス」など、タイトル自体に都市の名を冠したものが多いのはもちろん、作中においても登場人物の会話や、あるいはカメラに写りこんだ標識の中に、しばしば「地名」が現われるのだ。例えば『都会のアリス』で、祖母の住む街の名を思い出せない少女に対し、主人公の男が手帖の付録にあるドイツの都市名を、アルファベット順に読み上げて行く場面などは、その端的な一例だろう。

『都市とモードのビデオノート』や『都会のアリス(Alice in den Staedten)』では、タイトルでこそ抽象的な言葉(「都市」)が用いられているが、そこに映し出されているのは間違いなく東京であり、あるいはNYやアムステルダム、ヴッパタールである。

公演中、スクリーンにはヴェンダースが写した様々な都市の写真が映し出されていた。その多くは自分の知らない場所だったけれど、あたかもその場に身を置いている錯覚を起こすような、固有の雰囲気をもつ空間であった。