ある芸術作品やその作者を取り巻く「社会的背景」や「社会的コンテクスト」の探究を標榜する美術史研究は多い。ただ、自分はそういった研究(の一部)が有している、前提条件への無邪気さというか素朴さに、漠然とした違和感を抱いていた。既にディディ=ユベルマンがバクサンドールを批判して言うように、ある時代に属する一個の文献が、同時代の別の事象に対する解釈根拠になるとは限らない。素朴な文献実証主義に対するかかる批判を受けて、社会的コンテクストの「重層性」「複数性」「多様性」「錯綜性」を認めることは容易いのだが、しかしそのようなものとしての「コンテクスト」を精確に確定する作業は、その実きわめて困難なのではないだろうか。それ以前に、そこで言われている「社会」やその前提としての「同時代」の外縁じたい、一義的に規定可能なものではないだろう。そんなことを考えていた時、自分の疑問を明確に言語化してくれている一節に、偶然遭遇した。

「社会的なコンテクストを重視する」というときの「社会」とは、いかなる意味を担わされた概念であるのか、それは「特定の社会学的属性(「ジェンダー」「クラス」「エスニシティ」……)を持った主体が織り成す意味空間」とか、そうした諸主体が「敵対的関係を繰り広げる場」といったようなものに還元する[中略]ことができるようなものなのか?あるいは、特定の言説・出来事・事象の背後で作用する社会的文脈(や権力関係)なるものを、分析者はいかにして抽出することができるのか……。[中略]「社会的文脈を考察する」と言えてしまうことの問題性――定義上無敵である知識社会学的思考の野蛮さに対する自己反省――をめぐる社会学再帰的問いが看過されたまま、「社会的文脈主義(social contextualism)」とでもいうべきものがあらゆる知の分野に広がっていく事態。留まることを知らない政治主義的な社会学帝国の拡大に、ある種の気味の悪さを感じ取っているのは、実はほかならぬ社会学者なのかもしれない。
北田暁大『責任と正義 リベラリズムの居場所』勁草書房、2003=2004、xii-xiiiページ。)

もちろん、北田氏がここで想定しているのは社会科学系の諸分野であって、美術史における「社会的コンテクスト研究」とは前提や射程の異なる面も多々あろうが、鋭く切り込んでくる指摘だ。

そして、特定の作品/イメージを前にした歴史研究においては、さらに問題は複雑化するだろう。仮に「社会的コンテクスト」なるものが抽出可能であるとしても、ある作品がそれを正確かつ完全に反映しているとは限らないのだから。「社会的コンテクスト」なるものとイメージの関係は、けっして無媒介に透明なものではないであろう。