しかしこうして無節操に過去を引用した[ル・ロランやブレらの舞台背景画の]凱旋門の構図の暴露するものは、それゆえ歴史の倒錯、つまり〈歴史〉を事実の継続関係の蒐集から経験的諸領域の基本的存在に堕落させることに他ならない。
古代のモチーフが探し求められるべき原理を示されることのないまま例外性を呈する《カンポ・マルツィオ》の主題とは、もちろんこうした〈歴史〉の変質である。
青木淳「描かれた都市――ヴェドゥータからパノラマへ」『Space Design』第198号(1981年3月号)、47ページ)

だがピラネージ的『街景(ヴェドゥータ)』の世界はより複雑なものである。というのもそれは例えばカナレットのそれとの間に本質的な相違があるからだ。カナレットがヴェネツィアを存在しえぬ街にするためにはパラディオという反ヴェネツィア的要素を必要としたが、ピラネージにあっては現実に存在する都市要素を常に巡りながらも、結局のところそれはローマではなく、たったひとつのピラネージ的場なのだ。つまり遊覧者達が歩き回されるのはエキゾティックな偶然(カプリチヨ)を見るためではなく、ひとつの本質の反復のためなのである。ピラネージ的場とは絶対的オブジェに対する不利な視座である。例えばバシリカ・ディ・サン・パオロのインテリア。この描かれた民衆達の矮小さ。この誇張されたパースペクティヴの視点の位置はかえって誇張されているがために完全に限定されてしまい、その位置を可能にするのは巨人のそれも壁を透視できる眼差によるしかない。ここでは見る主体は消去され眼差だけが残っているのだ。
(同上、48ページ)