コラージュ・シティ

金沢旅行の際に、21世紀美術館ミュージアム・ショップで目に付いて購入したコーリン・ロウ+フレッド・コッター『コラージュ・シティ』(渡辺真理訳、鹿島出版会、1992.ISBN:4306061124)。補助線として援用する理論の出典が明確でなかったり、オリジナルな概念の説明が省略されていたりと、かなり難解な書物なのだが、巻末に収められた「注釈」(pp.273〓277)の文章が示唆的だった。自分が主張したいのは結局はこういうことなのだが、それを「美術史学」で一般的に正当と見做されているような手続きに従って、説得的に論理展開するのはなかなか難しい。

『私の破壊に抗して、私のとり集めた断片たち』というT.S.エリオットの『荒地』での言葉の〈オブジェ・トルゥベ〉がいままでの作業を結論づけようとすると頭に浮かんでくる。しかし、パラディオの建物によって構成されているカナレットの空想のリアルト橋風景は、現実の状況と比較してみたときに、『コラージュ・シティ』でとり上げてきた論点のいくつかを含んでいるということができるだろう。パラッツォ・デイ・カメルレンギはバシリカに、ドイツ商館はパラッツォ・キアリカーティにそれぞれ置き換えられ、遠景にはカサ・チヴェナらしきものがひそんでいるのを認めると、この絵を観る人は二重のショックを受けることになる。これは理想化されたヴェネツィアだろうか、それとも実現しなかったヴィチェンツァだろうか?この疑問はついに解決されることはない。したがって、ウィリアム・マーローの風景画に見られる、ヴェネツィアの市街に挿入されたセント・ポール寺院も同じ空想の劇場に間違いなく貢献するものである。こういった、建物の空想上の移動を取り扱った絵画は数多く存在する。
日常言語から離れた詩的なレベルでは、ニコラス・プッサンの絵画の背景に描かれている建築群が、それに匹敵する、合成されたエレメントからなる都市をあらわしている。建築的な『詩的な反応を生むためのオブジェ』を操作するプッサンの技法は、いうまでもなく、カナレットやマーロウのそれに比して、段ちがいに完成度が高く、強い喚起力をもっている。カナレットの絵画は、知識ある旅人の興をそそり、マーロウは心を揺り動かす。そして、プッサンの空想の都市の中ではすべてが古典性を帯びた形に凝縮する。例えば、ノースレイの『フォキオン』の中では、アテネ郊外のメガラが高度に洗練されたイタリアの村落として描写されているが、その中心を占めているのはトレヴィの神殿(これもまたパラディオによる)の精密なレプリカである。また、ルーヴルにある『盲目を治癒するキリスト(エリコの盲人)』では、ナザレの村はローマとヴェネト地方の建築のアンソロジーになっていて、パラディオの実現しなかったヴィラ・ガルザドーレによく似た建物や初期キリスト教時代のバシリカ(これは直接のコピーではないようだが)や明らかにヴィチェンツォ・スカモッツィ風の外観を持つ住宅などによって構成されている。過去をいっそうさかのぼっていくと、こういった融合・合成をスタイルとしている例には事欠かない(例えば、ヤン・ファン・アイクのゲント美術館所蔵の『子羊の愛慕』の背景はロマネスクでもあり、ゴシックでもある)。しかし、この問題をもうこれ以上追及する必要はあるまい。なぜなら、根本的の、複合的な要素を含んだ都市という理念はあまねく浸透しているので、時代遅れになるという懸念は無用だからである。そこで、都市の複合化を性格づける主観的で統合的な手法が、なぜ永年にわたって非難されるべきものと見なされてきたかを、ここで再考してみたい。その威圧感にもかかわらず、観念的な知性の産物であるユートピア都市はいまだに評価すべきものとされており、その一方でメトロポリスはゆるやかに組織化された、同情や熱意に基づいた博愛主義にもかかわらず、依然として評価されるに至らない。しかし、もしユートピアという観念が必然的なものだとするなら、他の観念的な都市すなわち、カナレットの『空想の風景』やプッサンの絵画に見られるコラージュされた背景に表現されている、もしくは予言されている都市も同じくらいの重要性を帯びているはずである。
暗喩としてのユートピアそして処方箋としてのコラージュ・シティ。この対概念の共存が、規則と自由を保証し、科学的な〈確実性〉またはアド・ホックという気紛れのどちらかへの完全降伏ではない、未来への弁証法を確実なものにする。近代建築の解体は、まさにそのような手法を必要としている。それには、啓蒙主義的な多元論に興味深い可能性が示されているように思われるし、おそらく常識という月並みなキーワードが役に立つ場合もあるだろう。
(引用文中の「マーロー」と「マーロウ」の表記の揺れは、原文のままである。ちなみに原綴りはWilliam Marlow。)

ところで、ロウ=コッターの言う「コラージュ」と、タフーリ(『球と迷宮』)の言う「モンタージュ」は、ほぼ同一の概念だと思うのだが、一般的にはこの二つの用語は使い分けられている。その辺りの処理も難しい。