見たものすべてを言語化しようとする、偏執的なまでの情熱。
ユイスマンスの列挙癖について。
(宝石の名やら、モローやルドンの絵画のディスクリプションやら、珍奇で無気味な花々の細密な描写やら。)

テオフィル・ゴーティエの執拗なまでの描写を前に真っ先に連想させられたのが、ユイスマンスであった。ただ、ゴーティエとの比較項としてユイスマンスが果たして有効なのか否か、確信が持てないでいた。後日ある方に相談したところ、その方向性でよいとのこと。
ゴーティエが石のマチエールへの愛であるとしたら、ユイスマンスは植物の(病んだ、とりわけ梅毒の)皮膚への愛だと、漠然と考える。

人間の作ったものを真似することができない時は、自然はせめて動物の体内の膜を模倣したり、動物の腐った皮膚から生ま生ましい色や、動物の壊疽から豪奢な醜悪さを借り受けたりすることで満足しているらしかった。
ユイスマンス『さかしま』澁澤龍彦訳、河出文庫、2002.asin:4309462219、132頁.)

ときどき、病気は表面にすがたをあらわし、好んで身なりの悪い連中や栄養不良の連中に襲いかかり、金貨のような黄色い丘疹のできる皮膚病となって、表面に輝き出で、貧乏人どもの額に、皮肉にもエジプトの舞姫の貨幣形装飾を飾りつけてやり、彼らの悲惨に追い討ちをかけんものと、表皮に富と安楽の似姿を彫り刻んでやるのである。
そしてまた、植物の彩られた葉の上にも、病気はその最初の華々しい姿でふたたび立ちあらわれるのだ!
(出典は同上)

また一方、デ・ゼッサントは永いこと愛読した末に、ゴオティエの作品にも興味をもてなくなってきていた。類まれな絵画的な文章を書く作家(l'incomparable peintre qu'etait cet homme)として、かつては敬服してもいたのに、その敬服の念が次第に失われて、今では、いわゆる冷淡な彼の描写(ses desciptions en quelque sorte indifferentes)に、感心するよりもむしろ驚くことの方が多かった。事物の印象は何でも彼の目にとらえられ、鋭敏に知覚されるが、印象は目の表面にとどまったきり、彼の頭脳や肉体のなかまで奥深く侵入して来ないのである(L'impression des objets s'etait fixee sur son oeil si perceptif, mais elle s'y etait localisee, n'avait pas penetre plus avant dans sa cervelle et dans sa chair)。異常に精密な反射鏡のように、彼はつねに非個性的な明晰さをもって、ただ周囲の外界を映し出すにとどまっているのである(de meme qu'un prodigieux reflecteur, il s'etait constamment borne a reverberer, avec une impersonnelle nettete, des alenours)。
(同書、259〓260頁;原文はHuysmans,"A Rebours", Paris : Bibliotheque Charpentier, 1891. p.251.)