メモランダム

1988年9月刊行の『WAVE』(特集:サイバーシティ東京)を読んでいて、「デッドテック」という言葉を知る。おそらく現在はもう生き残っていないヴォキャブラリーではないか。先端的なテクノロジーのイメージと死や病や崩落とが結びつく表現が、この頃に盛んになることに注目してきたのだが、「dead tech」という撞着語法的な語彙が当時存在していたとは。

 

  • 武邑光祐インタヴュー(聞き手:小川巧)「デッド&サイバーテック」

この特集号には、まず武邑光祐のインタヴューが収められている。武邑は、1980年代の初めから「デットテックな人工自然」に関心を寄せ始め、それはS.R.L(サヴァイヴァル・リサーチ・ラボラトリー)*1などの「ジャンク・マシーンとヘヴィ・メタルな文脈」のなかの、「廃墟を巡るさまざまな状況」が具体的になってきた時代だったと語る。当時ニューヨークではピア34の桟橋倉庫廃墟などを利用し、廃墟をテーマにした美術展や、廃墟の壁そのものを利用した作品展示なども行われていたという。(この種の1980年代インダストリアル廃墟趣味は、日本固有のものではなかったようだ。もちろんサイバーパンク、建築界のダーティリアリズム、ノイズやインダストリアルに分類される音楽とそれを取り巻く文化の系譜など、さまざまな要素が絡み合うなかで生まれ、国際的に影響し合って生成と変容を遂げたジャンルなのだろう。その辺りを広範に、かつ個別事例の固有性を切り落とさず丹念に浚ったうえで「見取り図」を作成するのは、かなり大変な作業になりそうだが。)

 

その時代にデッド・テックという言葉がハイテックの反語として、あるいは倒立した概念として出てきました。一般にデッドテックな風景として第一次、第二次世界大戦を通して崩れていった風景、あるいは過去の膨大な時間をひきずっている遺跡の発掘などによってたちあらわれていく廃墟などがあります。つまり掘り起こすこと、探査することで出現する廃墟と、今までそびえ建っていた人工的なアーキテクチャーが腐蝕と酸化と共に短期間の間に崩れてしまったもの、二つの戦争によって残骸として残された廃墟の三つがあります。そうした廃墟の中でも、僕が興味を持ったのは一九四、五〇年代に建てられたアーキテクチャーだとか、六〇年代に月へいった「スペース・ミッション・プログラム」の残骸や「ニュークリア」、核、原発ですね。この宇宙と核を巡る巨大な人工自然といったものが徐々に朽ち果ててきているといった廃墟性なんですね。

(『WAVE』第19号、1988年9月、26ページ。)

 

この武邑のインタヴュー内で言及されているのが、ドイツの写真家マンフレート・ハムManfred Hamm(文中では「マンフレッド」表記)の『Dead Tech: A Guide to the Archeology of Tomorrow』原著1981年、英語版1982・2000年(Amazon.jpでまだ中古が売られている)、スイスの写真家ルネ・ビュリRene Burri(文中では「レネ・ブーリ」表記)の『American Dream』1986年、アルゼンチン出身で、『RE/Search』誌のJ.G.バラード特集号(1984年)の写真も手がけたアナ・バラッドAna Barrado*2

またインタヴュー後半では、テクノロジーを人間の神経系と繋いで、「インナー・ヴィジョン」を得たり精神的なセラピーを実施したりするプロジェクトについての言及がある。武邑自身も認めている通り、ニューエイジがドラッグでやろうとしたことを、神経系とテクノロジーの接続によって発展させるという性質も強いようだ。広く言ってしまえば「サイボーグ」的技術だと思うが、この時代固有の要素もあって面白い。三上晴子によるプロジェクトのコンセプトなども考え合わせると、「神経(ニューロ)」への注目がそれに当たるのではないかという予感を持っている。それが「身体の廃墟化/廃墟としての身体」にも繋がってくるのではないか。よくよく調べてみたら外れているかもしれないけれど。

 

  • 三上晴子インタヴュー(聞き手:今野裕一)「ニューヨークのアイアン・アート:S・R・L/TODTたちの活動」

ここで三上が賞賛するのが、上掲のS.R.Lと、それからT.O.D.T*3というアーティスト・グループである。彼女がとりわけ注目するのが、機械が人間のコントロールを越えて動く(ときに暴走する)という部分だ。そこでは、機械の精確さ、忠実さ、被統御性といった一般的な(機械が人間に資する道具、目的を効率的に達成する手段であるための)性質は、その対極へと振り切れてしまっている。(インタヴューに添えられたS.R.L作品の写真には、「産業ロボットが意志をもつ漫画「わたしは真悟」を思わせる」とのキャプションが付されている。)

 

S・R・Lのパフォーマンスなんか、人間のコントロールを越えたマシン・レヴェルでの戦いでしょ。ケーブルとケーブルがほんとは接触しちゃいけないところが接触したりして変な動きになったり、人間が操作していることと違った機械レヴェルの動きでしょ。それをヤバイ止めようとか思うんじゃなくて、面白がっちゃうというか、そういうところがいいと思う。機械やテクノロジーに影響されるところがね。

(上掲誌、56ページ。)

 

彼女はバイオやコンピュータ、ロボティクスなどのテクノロジーにインスパイアされることが多いと言い、反対に「コンセプチュアル」なジャンク・アートティンゲリーなどは、人間が関与・介入しているゆえに面白くないとしている。

 

その後に収められたスチュアート・アーブライト(Stuart Arbright)へのインタヴューでは、聞き手の小川功が「ちょっと前までは廃墟感覚とかデッドテックとかいって、三上[晴子]さん達のやっていた仕事のイメージがコマーシャルなどのポピュラーな場所で使われることが多かった」(66ページ)とも発言している。この種の事実は、同時代感覚としてはある程度共有されていても、歴史化された記録としてはなかなか残りにくいので、なかなか貴重である。

 

この号の収録インタヴューには、「コンピュータ・ウィルス」をテーマにしたものもある(インタヴュイーは石原恒和)。ウィルスという病、死、人体のイメージがコンピュータにも用いられるようになったことに注目して、「コンピュータ観を変えるような契機になるんじゃないか」との発言がある。人間の想定し設計した完璧さから自ずと外れていく機械、事故的に思わぬ方向へとブレてゆく機械にこそ面白さを見出している、という点で、他のインタヴューと共通している。もちろんこの雑誌の(編集者である今野裕一氏の?)編集方針もあるだろうから、これを「同時代性」とまで言ってしまうには留保が必要だが。

 

飴屋法水×いとうせいこう 対談「東京サイバーキッズ」

無機物の一種の不完全性、無意味さ、無根拠性の支持(根拠づけることへの批判)、完全なテクノロジー有機性や「母性」・「女性性」に向かうことに抗う、創造としての「壊すこと」、身体のなかに機械を取り入れること、無機性と対極にある「演劇性」に抗うための「男の子」などについて語られる。

記事タイトルの「東京」「サイバー」そしてなにより「キッズ」という言葉遣いが、とても80年代という感じがする。現実的な意味での「子供たち」とはまた違う、概念としての「キッズ」。勝手な主観的イメージでは、大友克洋のマンガに出てくるような? ちなみに、『逃走論:スキゾ・キッズの冒険』は1984年刊行。

*1:Wikipedia英語版:https://en.wikipedia.org/wiki/Survival_Research_Laboratories、個人ブログ「ガタリ夜話」2018/3/28記事(1999年日本公演の回想):https://gatarinaeda.com/srl/

*2:1989年にはペヨトル工房から『アナ・バラッド写真集』が刊行されている。『InterCommunication』第2号(1992年)で紹介されたこともあったようだ:https://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic002/contents_j.html。まとまった説明のある日本語ブログ記事はこちら:https://atgs.hatenablog.com/entry/20130908/1378649593

*3:Fleisher/Ollman galleryのウェブサイトに、詳しい説明と作品の写真が掲載されている:https://www.fleisher-ollmangallery.com/exhibitions/todt_after_next

【メモ】同人誌『同時代』を刊行している「黒の会」の会報、「黒の会手帖」第14号(2021年11月)に寄稿したエッセイ「文学散歩というテクスト」から抜粋。

 

  「文学散歩」それじたいが、テクストの創造的な解釈行為であり、一種の翻案や二次創作でもある。まずは対象となる作品を徹底して読み込んだうえで、場合によっては曖昧な部分や余白の部分を解釈によって補わないと、文学作品の舞台や背景となっている場所を特定するのはむずかしい。さらに、文中に登場する地名やモニュメント名を抜き出すだけでは不十分である。その場所が、どう描写されているのか、物語の展開にどのような役割を果たしているのか、いかなる象徴性を帯びているのか、それを見抜かなくてはならない。現存しない地名や場所も多いから、古地図や地域史資料を丹念に調べる必要もある。そのつぎに、実際に現地に赴いて、残っている痕跡や断片や、あるいは「気配」のようなものに、眼を凝らし、感覚を向ける。換言するならば、それはテクストの探偵術であり、街角の探偵術でもあるのだ。

 

 作品に基づいて、ある土地を徹底して歩き回ることは、新たなテクストをも生み出す。たとえば川本三郎の『荷風と東京 『断腸亭日乗』私註』(一九九六年)は、「書かれた土地」をひたすら歩くことが、徹底した解釈と註釈の行為でもあることを、如実に物語っているだろう。実際に歩いてみてから、ふたたびテクストに立ち戻れば、そのつど新たな読みが現れてくる。地名を軸に、時代や作風のまったく異なる作品が、インターテクスチュアルに繋がってゆくのも面白い。

 ふたつめの発見、というか再認識は、「テクスチュアルに伝達・共有されてゆく場所の記憶」というものが存在するということだ(「歌枕」はその典型だろう)。「市川の文学」ときてまず名が挙がるのは、万葉集に謳われた「真間の手児奈」なのだが、興味深いのは、詠み手が旅人であり、ある場所を通り過ぎる一瞬に、すでに消え去った過去の記憶を「想起」しようとしていることである(実際に会った者の個人的記憶でも、定住者にとっての土地の記憶でもない)。手児奈という女性のイメージは、真間という地名と結びつけられつつ、インターテクスチュアルな記憶としてのみ反復される。その意味では、手児奈という「古代の女」幻想は、アビ・ヴァールブルクが夥しいイメージ群を貫いて見出した「残存する古代の情念」の定型「ニンファ」の、テクストヴァージョンとも言いうるのかもしれない。

 

 

【メモ】同人誌『同時代』を刊行している「黒の会」の会報、「黒の会手帖」第14号(2021年11月)に寄稿したエッセイ「文学散歩というテクスト」から抜粋。

 

 作品に基づいて、ある土地を徹底して歩き回ることは、新たなテクストをも生み出す。たとえば川本三郎の『荷風と東京 『断腸亭日乗』私註』(一九九六年)は、「書かれた土地」をひたすら歩くことが、徹底した解釈と註釈の行為でもあることを、如実に物語っているだろう。実際に歩いてみてから、ふたたびテクストに立ち戻れば、そのつど新たな読みが現れてくる。地名を軸に、時代や作風のまったく異なる作品が、インターテクスチュアルに繋がってゆくのも面白い。

 ふたつめの発見、というか再認識は、「テクスチュアルに伝達・共有されてゆく場所の記憶」というものが存在するということだ(「歌枕」はその典型だろう)。「市川の文学」ときてまず名が挙がるのは、万葉集に謳われた「真間の手児奈」なのだが、興味深いのは、詠み手が旅人であり、ある場所を通り過ぎる一瞬に、すでに消え去った過去の記憶を「想起」しようとしていることである(実際に会った者の個人的記憶でも、定住者にとっての土地の記憶でもない)。手児奈という女性のイメージは、真間という地名と結びつけられつつ、インターテクスチュアルな記憶としてのみ反復される。その意味では、手児奈という「古代の女」幻想は、アビ・ヴァールブルクが夥しいイメージ群を貫いて見出した「残存する古代の情念」の定型「ニンファ」の、テクストヴァージョンとも言いうるのかもしれない。

 

 

【メモ】絵画とヴェール:日本絵画のなかの「ヴェール的なもの」

喜多川歌麿葛飾北斎の浮世絵には、しばしば「ヴェール」的なもの=あちらとこちらを遮断しつつ透かし見させる表面が登場する、という感触がありつつ、それ以上は掘り下げられていなかったのだが、ジークフリート・ヴィッヒマンという研究者の著作『ジャポニスム』(Siegfried Wichmann, Japonisme, London, 1981)の「格子と柵」の章に、次のような分析があると知った。引用は馬渕明子ジャポニスム:幻想の日本』より。

 

浮世絵版画に描かれる障子や格子戸などの格子構造は、ヨーロッパの芸術家たちによって、美しくも効果的な、ヴェール状の空間分割の工夫と見なされた。歌麿はそれらを使って、浮世絵版画の伝統に従っていささか乱雑ではあるが、別の絵画空間を作り出した。

(馬渕、93-94頁より再引用(Wichmann, p. 233.))

 

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喜多川歌麿《四手網》18世紀末〜19世紀初、ボストン美術館など

馬渕のジャポニスム論は、このような浮世絵における「透かして見させる」効果(田中英二のいう「すだれ効果」)との共通点を、モネのいう「à traverse」に見出してゆく。

 

 

 

 

【メモ】

 

松本卓也『享楽社会論』から。

ラカン派の精神分析家、ジャック=アラン・ミレールは、「普通精神病」という新たな用語を提唱するに際して、興味深いことを言っている。前提としてミレールは、統合失調症の軽症化のような現状を前に、現代的な精神病の徴候を、「脱接続というモード」に見出している。

①社会的外部性:社会のなかに固定した位置を占めない(社会や共同体からの脱接続、あるいは過剰な同一化、「職を持つことは〈父の名〉)。ミレールは昔からよく観察されていた統合失調症者の放浪の代表例として、ルソーを挙げている。

 

②身体的外部性:「身体」という視点から興味を引かれたのがこの部分。以下、松本によるミレール理論の紹介の文章を抜粋。

普通精神病では身体が自己に接続されず、ズレをはらむことがある。この実例は、ジョイスが『若い芸術家の肖像』のなかで記述した、自己の身体が崩れ落ちるような体験である。このような身体の不安定性に対する対処行動として、ミレールは「タトゥー」を挙げている。つまり、彼らにとって「タトゥーは身体との関係における〈父の名〉になる」のである。

(上掲書、42ページ)

 

③主体的外部性:独特の空虚感

 

(途中)

都市というテクストと作品というコンテクストの相互作用

ウェブ検索でたまたま見つけた次の論文、「都市というテクストのコンテクストとしての作品」という視点が提示されていて、示唆を受ける。

渡辺裕「「文学散歩」と都市の記憶 : 本郷・無縁坂をめぐる言説史研究」、『美学藝術学研究』第35号、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室、2017年:https://doi.org/10.15083/00047661

作品というテクストが最終的な審級として存在し、都市の方はそれに付随する副次的なコンテクストにすぎないならば、文学散歩はせいぜい、背景を知ることによって作品の味わいを増す程度のものだということになろう。しかしながら、作品と都市の相互作用のメカニズムを明らかにしようというわれわれ の立場からするならば、文学散歩は、作品を現実の都市と結びつけ、重ね合わせる体験のできる貴重な場であり、そこにおいて作品がコンテクストとして都市というテクストの表象を豊かに作り上げてゆくと同時に、今度はその体験が作品の側にも投げ返され、その表象を変えてゆくというダイナミックな関係が、まさに生み出される場にほかならない。そのあり方を具体的な歴史相の中で捉えてゆくことによって、芸術作品が都市の記憶の形成に関与するメカニズムを最も端的に示すことができるのではないだろうか。別の言い方をするならば文学散歩は、文学作品という背景との関わりの中で都市の表象を作り出し、また都市という背景との関わりの中で作品の表象を作り出すことによって、それらをわれわれの記憶に刻み込んでゆく触媒装置として機能しているのである。

 

啓蒙思想家たちと「散歩」 散歩をするディドロ

一年前の文章の続き。

今書いているテクストに関係あると思ったらあまり関係がなくて、書架に戻そうとした本(ラクー=ラバルト『近代人の模倣』)に、ふと「啓蒙思想家たちと散歩」というテーマに関連する一節をみつける。ディドロ(による執筆とされる)『俳優に関するパラドックス』で、フィクショナルな「対話者」どうしが、ともにただ黙々と歩くという場面である。

われらが二人の対話者は芝居に出かけたが、席がなかったのでテュイルリーへと向かった。彼らは少しのあいだ黙々と散歩をした。二人は一緒だということを忘れはてたかのようであった。自分一人しかいないかのように各々が自分相手に会話をしていた。
(大西雅一郎による訳より孫引き、11ページ。)


Nos deux interlocuteurs allèrent au spectacle, mais n’y trouvant plus de place ils se rabattirent aux Tuileries. Ils se promenèrent quelque temps en silence. Ils semblaient avoir oublié qu’ils étaient ensemble, et chacun s’entretenait avec lui-même comme s’il eût été seul …

Wikisource, Paradoxe sur le comédien, Paradoxe sur le comédien - Wikisource

 

沈黙しつつのぶらぶら歩きが(とはいえ、テュイルリーという目的地は定まっているのだが)、それぞれの「対話者(interlocuteur)」の内に、「独話」や「内的対話」としての思考を生じさせるのである。

もっとも、この部分を引用したラクー=ラバルトの主眼は、ミメーシス論、演劇論(そのパラドックス)にある。ディドロのテクストの語りが、二人の対話、独話、内的対話のダイナミズムから構成されていることへの言及はあるが、「散歩」については触れられていない(まあ、当たり前だろう)。