朝日新聞夕刊のリレー連載「にじいろの議」に寄稿いたしました。「空想散歩の歴史をたどる:居室から広がる「体験」」と題して、コロナ禍で一気に普及したヴァーチュアルヴィジットから、空想旅行や空想美術館の系譜を辿ります。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15007494.html
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この記事でも少し言及しているグザヴィエ・ド・メーストル『居室周遊紀行(部屋をめぐる旅)』、ルリユール叢書から9月末に邦訳が刊行されるとのこと。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784864882316

高梨豊の写真集『地名論 genius loci, tokyo』(毎日コミュニケーションズ、2000年)を購入した。

 

一九九四年からはじめたこのシリーズは、「地名」をたよりに始められた。町の名であり、川の名であり、橋の名であり、坂の名前である。本郷ならば「森川町」や「菊坂」となる。

 「界隈」を失った東京を「地名」を軸にとらえようとしたもので、いわば〈面〉から〈点〉への視点のシフトであり、空間にかわる時間的なアプローチである。マチを水平に歩くのでなく、地ベタを垂直に歩行するのである。足取りはひっきょう「歴史」への歩行となる。

[…]

 あるとき「歴史」を「履歴」に読みかえてみる。ペラッと一枚、あの履歴書のリレキである。印画紙二枚のこの仕事にはふさわしい。そうこうあって、『地名論』は続けられた。

高梨豊によるあとがき)

記憶の時間を遡る旅も、都市のなかに連綿として息づいている地名に封じ込められている。われわれは蒔空を越えて旅をし、都市のなかにある誰も知らない記憶を探り当てたいと願うことがあるが、そのときも地名はわれわれを捉えつづける。

鈴木博之「地名論の世界――高梨豊写真集によせて」)

 

勤務先の教育振興プログラムで、いま「市川文学散歩」というプロジェクトが進行している(8月半ばには、パンフレットの配布や市川駅南口図書館での展示が始まるはず)。学生有志たちが、大学の所在地である「市川」の登場する作品を探し出し、地名や場所を特定した上で、文中でその場所がどのように描写されているのか、物語の展開上どのような役割を果たしているのかを探り、パンフレットやウェブサイト、展示物などにまとめるというものだ。昔の作品だと、現代の地名や土地利用状況とは喰い違いが出てくるので、当時の地図を探して調べたり(といっても、「今昔マップ」であらかた用が足りるのだが)、かつての地名の残骸を街角のちょっとした細部に見つけ出したりと、いわば「テクストの探偵術、都市の観相学」めいた作業が要求される。

この「市川文学散歩」プロジェクトでは、作品の解説とともに、現在のその場所を写真に撮り、パンフレットやウェブサイトに掲載してもいる。つまりそれは、都市の相貌を写す、都市の記憶を留めるという試みでもあるのだ――そこでふと、写真家の高梨豊の活動を思い出し、彼の写真集(自分の蔵書には一つもなかった)をいくつかオンライン古書店で購入してみた、という次第。

 

『地名論』の撮影時期は1994年から2000年まで。新宿、本郷、下北沢…… 私が大学進学後、東京に出てきてすぐの頃に見知った風景もとらえられている。かつては確実にそこにあった、しかし今はもう相貌を変えてしまった風景、そのなかを歩く人々。都市の粗い肌理、その手触りのようなものや、晴天の日の猥雑な匂いのようなものが、ふと写真から感じ取れるような錯覚がある。


自分が写真を撮るようになったのは、技術的関心からでも美的関心からでもなく、消えてしまう情景、失われゆく情景を留めたいという、切羽詰まった感覚からだったことを思い出した。1990年代後半、駒場寮も同潤会アパート群も、取り壊しが宣言され始めた頃である。

ユリイカ ココ・シャネル特集』2021年7月号に、論考「フィルムのなかのシャネル」を寄稿しました。『去年マリエンバートで』を中心に、ジャン・ルノワールゲームの規則』、ルイ・マル『恋人たち』、『ボッカチオ‘70』収録のヴィスコンティ作品などに触れ、シャネルによる衣裳がもつ役割を考察しました。
シャネルはデザイナーとして、女性として神話化された存在になっていますが(Twitterを「ココ・シャネル」で検索しても、彼女の言葉だという「名言」が数多くヒットします)、今回の特集は、このような紋切り型のシャネル像を解体し、複数の新しい視点をもたらす試みになっていると思います。

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国立新美術館の「ファッション イン ジャパン 1945-2020」展に行ってきた。戦前のモガの洋装、戦中の国民服、戦後の洋裁ブームと洋裁学校から、個々のデザイナー、ユースカルチャー、雑誌、広告、改造制服、DCブランド、アイドルや音楽とファッションの関係、ファストファッション、近年のSDGsエシカルを意識した流れまで、様々なレベルの「ファッション」が、時系列で並んでいるのだが、不思議と「雑駁」という印象はなく、日本の社会現象としての「ファッション」を規定してきた要素について、知見を広げつつ整理できたという感想。作家主義的なデザイナー論では、なかなか取り上げられなさそうなデザイナーやDCブランドが掬い上げられていた点もよい(それぞれの時代の空気のようなものの立役者、という意味で)。
個人的には、初期のMILKと金子功を見られたこと、(これまで初期MILKが紹介されているという知識のみだった)『服装』という雑誌の正体が分かったことも成果。

 

 

去年マリエンバートで』の映画の構造は、男Xが語る邸館の室内や庭園の構造と呼応しているように思われる。

 

「そしてまた、私は歩いたのです。ただひとり、あの同じ廊下づたいに、あの同じだれもいない部屋から部屋へ、私は歩いていきました、あの同じ柱廊、同じ、窓のない回廊ぞいに、同じ入口を通りぬけて、どれも似たような錯綜した通路の中から偶然のように道をえらびながら」        [1]

 

「そのホテルの庭は、樹も花もない、植物のまったくない、一種のフランス式庭園でした…… 砂利と、石と、大理石と、まっすぐな線とが、厳しい空間を、何の謎もない平面を描き出していた。最初は、そこで道に迷うことなどありえないように思われました…… 最初は…… 直線的な遊歩道に沿って、凝固した動作を示す彫像や、花崗岩の敷石の間で道に迷うなんて。だがそこで、その庭で、今やあなたは、もう永遠に道に迷いかけていた、静かな夜の中、私と二人きりで」        [2]

 

      [1]アラン・ロブ=グリエ「去年マリエンバートで天沢退二郎訳、『去年マリエンバートで/不滅の女』筑摩書房、1969年、51ページ。

      [2]ロブ=グリエ「去年マリエンバートで」139ページ。

 

 

部屋から次の部屋へとカメラが移動するとき、物語内の時間は別の時制へと飛躍している。それは観客が騙されているのではない。ロブ=グリエのテクストそれ自体が、こう指示している。

 

彼女、Aは、一歩も動いていない。この一連の画面に、やがて、新しい人々のグループがまざりはじめる。あの劇の演じられた部屋にではなくて、ホテルの他の広間、他の時に属する人たちが。

 こうして、芝居のあった部屋の画面に続いて、ホテル内部や、人々の様子など、さまざまな場所、さまざまの時間にわたる一連の画面が相次ぐ。やはり固定した画面であるが、それぞれの時間の幅は次第にひろがっていく。      [1]

 

    [1]ロブ=グリエ「去年マリエンバートで」27ページ。

【メモ】フロイト「文化の中の居心地悪さ」新訳

 

心の生活においては、一度形成されたものは何ひとつ滅びず、すべてが何らかのかたちで保存されており、たとえばその時期にまで届く退行のような機会に恵まれると、ふたたびおもてに現れてくることがある……。この想定が何を内容としているかを明らかにするために、試しに他の領域に例を取って比べてみるとよい。例としてわれわれが取り上げるのは、永遠の都ローマの発展である。[…]きっと、様々の古いものが都市の地中や近代建築の下になお埋蔵されているはずだ。[…]さて、ここで仮にローマが人間の住む土地ではなく、同じように古くからの内容豊かな過去を持った心的存在であり、そこで一度成立したものは何ひとつ没落せず、最後の発展段階と並んで以前の段階がすべてなお存続していると空想的に仮定してみよう。[…]パラッツォ・カッファレリの場所には、この建物を取り壊さずとも、カピトリヌスのユピテルの神殿が立っていよう。しかもそれは帝政時代のローマの人々が見ていたような最後の姿においてだけではなく、またエトルリアの様式を呈し陶製の鐙瓦で飾られた最初期の形で現れるのだ。[…]この空想をこれ以上引き伸ばしても、どうやら何の意味もあるまい。[…]同じ一つの空間を二つのもので満たすわけにはいかない  [1]

 

  [1]ジークムント・フロイト「文化の中の居心地悪さ」嶺秀樹・高田珠樹訳、『フロイト全集20 1929-1932』岩波書店、2011年、73-75ページ。

最近の漂着物

・拙論「絵のなかを歩くディドロ:「サロン評」の風景画記述と「歩行」のテーマ系」がリポジトリ公開されました。

Permalink : http://doi.org/10.18909/00001974

※PDF23ページ脚註3の『古きフランスのピトレスクでロマンティックな旅』について、刊行年が「1820-63年」とありますが、正しくは「1820-78年」です。

 

・同人誌『同時代』第4次第3号(2021年3月号)に、「書物への自己幽閉」と題して、ジュリアン・グラックのテクストの建築的性格、とりわけ「洞窟性」についての試論を寄稿しました。お読みになりたい方は、私宛にメールをお送りください。編集主幹に取り次ぎます(1,500円+送料と引き換えに郵送となると思います)。

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・『ポワゾン・ルージュ2020』(研究テーマ:現代社会における〈毒〉の重要性、京都大学こころの未来研究センター発行、吉岡洋編集)に「廃墟化する身体、廃墟としての身体」と題し、東京グランギニョル、三上晴子、塚本晋也『鉄男』にみる「ジャンク・スクラップと融合する/としての身体」について試論を寄せました。こちらは無料配布なので、気になる方は私宛にメールにて送付先をお送りください。

mail:go-for-a-walk[at]hotmail.co.jp