表象文化論学会オンライン研究フォーラム「日本映画における衣裳」パネル、コメンテイターとして拝聴していても、とても面白かったので、寄せたコメントを備忘を兼ねてここに公開しておきます。

 【全体的に】

少なくとも日本で映画研究というと、作品分析や(監督=映画の全体を統括する作者とみなした上での)作家研究が、未だにほとんどだと思います。他方で服飾史やファッション論でも、映画の衣装については、特徴的な作品や女優、著名デザイナーについて散発的・個別的に言及されることはあるにせよ、映画制作に必須の一要素として包括的に論じたものは、本邦ではまだまだ少ないように思います。

このパネルは、「映画産業の歴史」という観点と、個々の衣装担当者(甲斐庄楠音森英恵)へのモノグラフィー的なフォーカス、さらには彼らの制作の文脈(画壇、演劇界の動向など)を架橋する形で、ややもすれば紋切り型の印象が流布している二人、楠音と森の、画家やファッション・デザイナーとしてのキャリアの中で「空白」となっている期間における創造のあり方を、地道で実証的な研究により明らかにしてくれるものでした。同時に、映画制作というシステム、あるいは一つの映画作品が、いかにそれぞれのスタッフの分担とチームワークで成立しているのかを、浮き彫りにしてくれるものでもありました。また、衣装という「細部(ディテール)」が映画の物語内で果たしている機能についても、豊かな洞察と示唆を与えてくれるご発表でした。

【太田さんへ(京都画壇と映画衣装)】

 太田さんのご発表は京都画壇の動向や共有されていた文脈と映画産業界という、二つの(一見すると別々の)職能世界を架橋する研究であり、同時に美術史と映画史という別個のディシプリンを繋ぐものでもありました。つまり、画家であり、衣装・時代考証担当者としての楠音における、「横の繋がり」を明らかにしてくれるものです。(琳派など江戸的なモティーフだが、安土桃山時代が舞台と思われる『雨月物語』に用いられている?)

 『雨月物語』という一つの映画作品における衣装の「蝶」の象徴性にも言及、これもまさに中国の故事から日本美術史、西洋美術史や文学・演劇の日本における受容、一種の比較神話学的な視点(魂・死)など、領域横断性の見事に発揮された、重要な指摘です。異界の女「若狭」の薄衣→空間を仕切る(鑑賞者と人物たちの間にヴェールとして掛かる)几帳の薄衣(蝶が透けて浮かび上がる)→源十郎の夜着代わりの小袖へと、「蝶」のモティーフが移転しているのも興味深いです。異界、幽霊の世界が、若狭から室内へ、そして源十郎へとその支配の領域を拡げていくようにも解釈できるのではないかと思いました。

 楠音のスクラップブックの実物写真も興味深く拝見しました。つまり、創造や思考をうながすためのスクラップというアイディアです(本来の文脈から特定のモティーフを切り取り引き剥がし、別の支持体の上に他のモティーフと並置することで、新たな配置がもたらされる)。

 ご発表は、基本的には女性役の衣装に注目するものでした。これはつまり、物語や人物造形上の要請から、特権的に女性役の衣装が重要であり、制作陣もとりわけ女性の衣装に力を注いでいた(裏を返せば男性役の衣装は比較的力を抜いている)ということなのでしょうか? それとも、男性役の衣装も同様に重要な役割を担っており、今後の研究課題である、ということなのでしょうか? また、女性の衣装と男性の衣装では、映画内での機能が異なるのでしょうか?(最後に源十郎の衣装の写真も出していましたが)

【小川さんへ】

  太田さんと同じ甲斐庄楠音を取り上げつつ、画業と映画の衣装・風俗考証担当、さらにはプライヴェートでの「演者(女形)」としての表現に分断されがちな彼の生涯を、一つの流れとして整理したどり直す研究でした。それぞれの表現をつなぐいくつかのモティーフ(人物の身振りや横櫛という小道具)に着目することで、「画業を辞めて映画界に転身」などというものではなく、それが連続するもの、共通の関心や表現欲に貫かれたものであることを、実証研究と作品解釈により明らかにしてくれました。特に、絵画における細部(ディテール)や「身振り」が、映画にもまた「女性を演ずる/女性になる楠音」にも共通する、あるいは伝播してゆくという点は、イメージ分析の観点からも興味を唆られます(ベタにいうと、ヴァールブルクのムネモシュネを連想させる)。また、映画制作に関わることが、楠音にとっては「絵を描くこと(視覚的、身体的な創造)」、さらには「自ら(女性を)演ずること」の延長ないし転移であったことも分かりました(絵に描いた女を実現する、女をイメージにする)。

 PowerPointでご提示いただいたスクラップブックの紙面を見ると、東西美術や表現のメディア、ジャンルを越境して、人物の身振りや複数人物により創り出される構図の共通性に、楠音の関心があったように見受けられます。これは、小川さんが指摘された「白糸」の身振り、「道行」の構図や「うずくまる女」というポーズが、楠音の絵画、映画、女形としての表現を貫くモティーフであることや、彦根屏風など過去のイメージの歴史から映画用スケッチへと「引用」を行なっていることとも、共通するものであるように思えました。また、楠音にとっては、「演ずる、成り済ます《わたし》の身体」が、実は最も重要であるようにも思えました(小川さんのいう「自作自演」)。小川さんのお考えはいかがでしょうか?

【辰巳さんへ】

 太田さん、小川さんの取り上げた事例は、時代考証を必要とする和装でしたが、辰巳さんは映画制作と同時代の洋装を取り上げられました。森英恵という、著名であるにもかかわらず日本のファッション論では等閑視されがちなデザイナー(少なくとも川久保玲三宅一生といった面々に比べれば)の、「皆が知っている森英恵」になる以前の活動を、丹念な調査で解明したもので、目を開かされました。

 同時に、とりわけ小津映画において「衣装(女性の衣装)」、さらには「着替えること(ある衣装から別の衣装への転換)」というテーマ系が、物語の展開において担っている重要な機能を、明晰に分析してくれるものでした。小津映画を見ると、「肝心の女性主人公の衣装がなぜか地味」「『秋日和』の岡田茉莉子が友人の結婚式で着るドレスは、全体の中で浮きすぎ」などと思っていたのですが、その謎が解けました。小津の映画は、「旧世代と新世代」が対照的に描かれ、例えば『秋刀魚の味』ではそれが生活の場所(日本家屋と団地、1階と2階)にも如実に現れていると思いますが、本日のご発表をお聞きして、「時間の停滞と転覆・急展開」という図式もあり、それが衣装で体現されているということが分かりました。

 辰巳さんにお伺いしたいのは、太田さんに対するのと共通の質問です。小津映画において、男性陣の衣装が果たす機能は、蓮實がすでに指摘しているような「モーニングに着替える」ことくらいなのでしょうか? つまり、女性役の衣装ほどの機能や意味を担わされていないのでしょうか?

12/19(土)は「現代社会における<毒>の重要性 2020年度シンポジウム」にて、「ジャンク化する身体:1980 年代の表現を中心に」というテーマで発表いたします。
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/20201219_symposium/
私の発表では、東京グランギニョル、三上晴子、塚本晋也『鉄男』などを取り上げる予定です。「外部からの侵襲」と「内なる異物」、あるいはそういう分かりやすい二項対立を崩してしまうような、しかし完全な融合・同一化ではない何か、がキーワードのような気がしています。ここ5年くらい考えている、ジャンル化された廃墟(ruin)ではない「廃墟的なもの」の系譜でもあります。(1980年代の日本のサブカルチャーにおける廃墟については、2020年3月の紀要論文でメモ書き的に論じました:http://doi.org/10.18909/00001938

 

翌日曜日(12/20)は、表象文化論学会オンライン研究フォーラム(https://www.repre.org/conventions/22020/)にて、パネル「日本映画における衣裳」のコメンテイターを務めます。

講義用メモ:ジョーカーにみる権力、暴力、「悪」の描き方:トッド・フィリップス監督『ジョーカー』2019年

バットマンとジョーカー:元々は1940年代から連載開始されたアメリカン・コミックスバットマン』で悪役(バットマンの敵役)として登場。その後、媒体や年代ごとにキャラクター設定は様々に変化。ジョーカーは「サイコパス(冷酷非情な純粋悪)」として造形されることも多い(アメリカ映画における「悪」の一つの類型)

Cf.アメコミ『バットマン』のストーリー自体が、幼少期のトラウマをめぐる(ベタにフロイト的な)復讐と倒錯した自己克服の物語(コウモリにトラウマがあり、両親の殺害とも結びつく記憶のモティーフだからこそ、コウモリの格好をする)。バットマンとジョーカーの鏡像関係も示唆?

 ・『ジョーカー』2019年:『バットマン』の前日譚(バットマンとなるブルース・ウェインの少年時代、悪役ジョーカー誕生の由来を描く)・アンダークラスの社会的弱者(精神疾患を患う「インセル」男性、定職・定収入もなく病気の母親と二人暮らし)としてアーサー/ジョーカーを描く

・悪は「強大な敵」として描かれない、「悪の崇高化」もなされていない(ジョーカー以前のアーサーは、今日のインターネットジャーゴンでいう「弱者男性」である)

・しばしば指摘されるように、製作当時のアメリカ合衆国や先進国の情勢(格差社会と社会階層の分断、アンダークラスの怒りなど)も反映された作品(ただし当時の米国=トランプ政権下では、アンダークラス白人はむしろポピュリズム政治に迎合的?)

・作中では、巨悪や強大な権力そのものに対する抵抗というよりも、「小金持ちに対する反感」(地下鉄内で女性をからかいジョーカーに射殺される)が民衆暴動のきっかけとなっている

・本作での「悪」(社会構造が生み出す相対的な「悪」?)は、新自由主義社会の勝者である富裕層・権力者層(ウェイン家)や小金持ちの「陽キャ」(地下鉄で女性をからかう若者たち)の側として描かれ、本来「悪役(ヴィラン)」のジョーカーはむしろ下層市民の共闘者、もしくは同情すべき善良な弱者として描かれている

・ジョーカーはアンチヒーロー、ダークヒーローの系譜ではあるが、 「人間味のある弱者」や「周縁化された存在」として描かれている

・文学的・芸術的な「狂気」のイメージの系譜(崇高で創造的なもの)ではなく、現実的で卑小な「精神疾患」として、ジョーカーとその母の狂気をとらえている(崇高な狂気から、病理としての精神疾患へ?)

・社会から見捨てられた母親と息子の対関係、「強い父親」としてのトーマス・ウェイン(彼が実父というのは、実はアーサーの母親の妄想)に拒絶される

・小金持ちに対するアンダークラスの怒りの爆発。デモ隊の仮面は「特権的なヴィラン」であるはずのジョーカーと同一化してしまう(これによりジョーカー/アーサーは刑事の追跡を逃れる)

→ジョーカーのクラウン・メイクは、「異形性の強調」から「市民との連帯・団結の象徴」へ?

・仮面/メイキャップ:ジョーカーの風貌にまつわる由来は、シリーズや作品によって異なる。2019年の『ジョーカー』では、コメディアンに憧れるアーサーの職業的な仮面であると同時に、権力による抑圧に怒りを爆発させる市民たちとの連帯の象徴ともなっている(「#アーサーは私だ」的なもの)

・ジョーカー/アーサーとメイキャップ/素顔の対応、自らが演ずる「ジョーカー」になるプロセス

・アーサーは結局は救済されず(「仲間たち」が出来るわけではない)、孤独に狂っていくことが示唆されるエンディング→「後日譚」としての「バットマンのジョーカー」へ 

 

オンラインシンポジウム「テクストを建てる、イメージを歩く」(9/12)開催報告

9/12オンラインシンポジウム「テクストを建てる/イメージを歩く」の報告が、勤務先大学のウェブサイトに掲載されました。
https://www.wayo.ac.jp/academics/ja_cul/nihonbungaku_blog/tabid/312/Default.aspx?EntryID=1350

「参加したかったが叶わなかった」という方のために、詳しめの報告文にいたしました。桑田氏の発表は未邦訳小説が多かったため、書誌情報のリストも付しました。

 

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オンラインシンポジウム「テクストを建てる、イメージを歩く」(9/12)のお知らせ

*9/11登壇者プロフィール、9/6各登壇者の発表概要を追加しました。

「テクストを建てる、イメージを歩く」と題したオンラインシンポジウムを、下記の要領にて開催いたします。
皆様の積極的なご参加をお待ちしております。


【日時】2020年9月12日(土) 14:00-17:30

【形式・申込方法】Zoomミーティングによる開催(要事前登録、300名まで参加可能)
主催者のメールアドレスcomposerlecrepuscule[at]gmail.com([at]を@に替えてください)まで、メール送信してください。
自動返信でZoomミーティングURLとパスコードが通知されます。

【登壇者】桑木野幸司(大阪大学)、小澤京子(和洋女子大学)、佐藤淳一和洋女子大学)、鈴木賢子(東京工芸大学)、桑田光平(東京大学)(登壇順)

【主催】2020年度科学研究費補助金(基盤研究C)研究課題「啓蒙主義時代から19世紀前半までのフランスにおける建築図面・図表の思想史的意義」(研究代表者:小澤京子)
【共催】和洋女子大学日本文学文化学科、和洋女子大学日本文学文化学会

【プログラム】
14:00-14:10 開会挨拶・趣旨説明(小澤)
14:10-14:40 桑木野幸司「アゴティーノ・デル・リッチョの理想庭園論における建築エクフラシスとinventio:模倣と創造のはざまで」
14:40-15:10 小澤京子「歩行によって風景を拓く:ディドロを中心とする18世紀のテクストから」
15:10-15:40 佐藤淳一「『痴人の愛』ナオミというイメージ、テクスト:川口松太郎による劇化を視座に」
(休憩)
15:50-16:20 鈴木賢子「W. G. ゼーバルトにおける都市の記憶術」
16:20-16:50 桑田光平「パリに終わりはないのか?:En quête d’une ville(都市を探して/都市の調査)」
(休憩)
17:00-17:30 総合討論、質疑応答
※登壇者の発表25分+事実確認の質問5分とし、最後に総合的な討論と参加者との質疑応答の時間を30分ほど予定しております。

【発表概要】

桑木野幸司アゴティーノ・デル・リッチョの理想庭園論における建築エクフラシスとinventio:模倣と創造のはざまで

16世紀後半のフィレンツェで活躍したドミニコ会アゴティーノ・デル・リッチョ(1541-98)は、その晩年に、博物学や農学、文芸や宗教的テーマに関する様々な著作を執筆した。なかでも彼の主著ともいうべき『経験農業論』(Agricoltura sperimentata, Firenze, 1595-98)で縷術される王侯のための理想庭園は、同時代の実在する各種庭園を自在に組み合わせつつ、著者の創意をふんだんに加えた豊穣なテクストといえる。本発表ではこの理想園記述を、修辞学の「発想」(inventio)の観点から分析し、モデルの提示と創造プロセスとのあいだの緊張に満ちた関係に、(建築)エクフラシスがどのように関与しているのかを、明らかにしてみたい。

小澤京子「歩行によって風景を拓く:ディドロを中心とする18世紀のテクストから

フランス啓蒙主義時代の哲学者ドゥニ・ディドロは、その絵画批評のなかでたびたび、「絵画のなかに入り込み、歩き回る、あるいは旅をするという体裁で描写する」ことを行なっている。それは、読者をして情景を再構成せしめるための修辞法であった。本発表では、ディドロによる「サロン評」のうち、とりわけ風景画の記述における、絵の中に入り込み、絵の中を歩く描写に着目し、分析と考察を行う。これを、18世紀のテクストとイメージにおける「歩行」のテマティスム――ルソーの「散歩者(promeneur)」、サドや建築家ルドゥー、その他啓蒙主義時代のユートピア紀行のテクストの「旅行者」など――と比較し、そのマッピングを提示することで、テクストとイメージ内に立ち現れる想像的・仮構的な空間の、18世紀における思想史的な特質を明らかにしたい。

佐藤淳一痴人の愛』ナオミというイメージ、テクスト:川口松太郎による劇化を視座に

谷崎潤一郎痴人の愛』のナオミは現在でも小説、漫画、アニメーション、アイドル表象などに翻案され続けている特異な存在である。最も早い翻案である川口松太郎による脚本(1926(大正15)年4月「苦楽」)の検討を通じて、ナオミというキャラクターについてのイメージ生成や彼女を中心に編成されるテクストの機構を分析することを試みたい。『痴人の愛』はまた日本の近小説としては類例がないほど同時代の流行を取り込んだ様相を示しており、文化状況との関連を分析した論考も数多い。本発表に際しては海浜を歩くことについて、先に述べたキャラクター分析の観点から研究史を整理してみることにしたい。

鈴木賢W. G. ゼーバルトにおける都市の記憶術

ゼーバルトの作品の特徴は、現存する建築や都市空間、風景を記述し、そこに固有名、歴史的断片や逸話、虚構的細部を投錨することによって、言語化できない歴史の無意識を探求することにある。本発表では、建築や都市空間を経巡って行う「記憶術」と絡めつつ、トラウマ的な集合的記憶にアプローチするゼーバルトの方法論について考察する。具体的には、『聖灰日の晩餐』におけるジョルダーノ・ブルーノのロンドン道中を記憶術文学の嚆矢と見定めるF. A. イェイツの記憶術論を下敷きにして、『アウステルリッツ』におけるプラハの町めぐりをしたいと思う。さらにこれもイェイツとのつながりで、シェイクスピア由来の「海辺のボヘミア」をキーワードに、ゼーバルト作品が、どのように抑圧されたもの・敗れたものの記憶を想起しようとしているのか検討する。

桑田光平パリに終わりはないのか?:En quête d'une ville(都市を探して/都市の調査)

オスマンの大改造(1853-70)前後から、「モダニティの首都」(デヴィッド・ハーヴェイ)であるパリは、多くの文学・芸術作品を生み出すだけでなく、作品の中でさまざまに描かれてきた。現実のパリとテクストのパリが相互に作用し、神話的とも言える都市のイメージがこうして生み出され、多くの外国人芸術家たちを惹きつけた。ヘミングウェイの「パリに終わりはない」という言葉が端的に示すような、パリの神話的な都市イメージ--芸術を生み出すトポスとしてのパリ--は、現代においてもなお有効なのだろうか。現代文学のいくつかの例を提示しながら、現在のパリがテクストにおいて、あるいはテクストとして、どのように表象されているか見てみたい。

【登壇者プロフィール】

・桑木野幸司(大阪大学 教授) :イタリア初期近代を中心とする建築史・美術史研究、とりわけ記憶術と空間・テクスト・イメージの研究。 著作に『叡智の建築家:記憶のロクスとしての16-17世紀の庭園、劇場、都市』(中央公論美術出版、2013年)、『記憶術全史:ムネモシュネの饗宴』(講談社選書メチエ、2018年)、『ルネサンス庭園の精神史:権力と知と美のメディア空間』(白水社、2019年、サントリー学芸賞受賞)など。

・小澤京子(和洋女子大学 准教授) :フランス18・19世紀の建築構想を中心とする、空間表象と身体表象の研究。 著作に『都市の解剖学:建築/身体の剥離・斬首・腐爛』(ありな書房、2011年)、『ユートピア都市の書法 クロード=ニコラ・ルドゥの建築思想』(法政大学出版局、2017年)など。

佐藤淳一和洋女子大学 准教授) :谷崎潤一郎を中心とする日本近代文学研究。 著作に『谷崎潤一郎 型と表現』(青簡舎、2010年)、論文に「まなざしの生成:「蓼喰う虫」の表現をめぐって(1)」(『和洋國文研究』2014年)、「重なり合う形象:「蓼喰う虫」の表現をめぐって(2)」(同、2015年)など。

鈴木賢子(東京工芸大学埼玉大学フェリス女学院大学非常勤講師 ) :ゼーバルトを中心とする現代ドイツ文学、イメージ分析、歴史・記憶とトラウマ表象の研究。 著作に『アドルノ美学解読:崇高概念から現代音楽・アートまで』(花伝社、2019年、分担執筆)、論文に「W. G. ゼーバルトにおける想起の空間:建築と記憶術」(『埼玉大学紀要』2013年)、「現代アートポピュリズムとどう渡り合えるのか:クリストフ・シュリンゲンズィーフ《オーストリアを愛してくれ》をめぐって」(『ポピュリズムとアート』2020年)など。

・桑田光平(東京大学 准教授): ロラン・バルトをはじめとする文学理論、現代フランス語圏の文学と芸術、場所・風景・環境、テクストとイメージの研究。 著作に『ロラン・バルト 偶発事へのまなざし』(水声社、2011年)、訳書にパスカルキニャール、ジェラール・マセ、ジョルジュ・ペレックル・コルビュジエなど。

【参加に際してのお願い】
・ZoomミーティングURL、パスコードを第三者に伝えたり、ウェブ上に公開したりすることはおやめください。
・このミーティングには300名まで参加可能です。上限を超えることはないとは思いますが、念のためご承知おきください。
・受信映像・音声(画面のキャプチャー含む)や発表資料を再配布すること(ウェブ上へのアップロード含む)はお控えください。

※主催者の保有する機関アカウントの機能制限により、Zoomウェビナーではなくミーティング機能を利用しての開催となります。
ウェビナーによるオンライン学術イベントとは勝手が異なる部分もあろうかと存じますが、ご了承いただければ幸いです。

【当日の進行に際して】
・当日13:30よりZoom上の「待機室」でお待ちいただけます。
・初期設定では、参加者はカメラオフ、音声ミュートになっております。ご質問・ご発言の際にはミュート解除をしてください。
ハウリング防止のため、自身のご発言終了後はかならず再度ミュートしてください。
・ネットワーク帯域節約のため、聴講中はカメラオフでお願いします。
・ご質問・コメントは「チャット」機能でも随時受け付けます。
・不測の事態が発生した場合は、Zoomミーティングを中断する可能性があります。
その際は、主催者のTwitterアカウント https://twitter.com/ozawa_lecture にて連絡・情報共有を行います。

旅としてのテクスト、庭園としてのテクスト 

旅――帰還を念頭に置かない旅だけがもろもろの生の扉をわれわれに開き、真にわれわれの人生を変革させうるものであるにしても、とりわけて高尚にかなった散策、二、三時間で振り出しの繋索へ、わが家の籬のうちへとたちもどる――波乱もなく意外な出来事とてない――ささやかな旅にはより隠密なあやかし、魔法使いが杖を振るにも似た魔力が結びついているものだ。(ジュリアン・グラック「狭い水路」、上掲書229ページ。)

テクストと表象

テクストと表象

  • 作者:小西 嘉幸
  • 発売日: 1992/04/01
  • メディア: 単行本
 

もともと庭というものは駆け抜けるためにあるのではない。そこにあらかじめ敷かれた小径を辿ってゆるやかな足どりで進みながら、くさぐさの出会いや細部の発見を丹念に噛みしめるときはじめて、本当の魅力と秘密を明かしてくれるだろう。(上掲書、91ページ。)

 

「テクストの庭のたっぷりと時間をかけた散策」(小西、上掲書、91ページ)という、書くことと読むことの経験。

風景画と同様に、あるいはそれ以前に、風景式庭園もまた、そのなかを散策することで「ピトレスクな旅」のテクストが紡がれるという性質をもっている。その意味では、「テクストのなかでタブローを描く」系譜に連ねることができるだろう。そこでもまた、「歩行のナラティヴ」が重要となる。

絵画や文学で描かれたアルカディア的風景の再現を目指した風景式庭園は[…]遊歩者は緑陰の小道を進みながら、それぞれに設定された「絵になる」眺めや、文学的、歴史的喚起力をもつモニュメント、あるいはファブリックを「発見」し、楽しむのである。それは一種の「ピトレスクな旅」と言える。

(展覧会図録『ユベール・ロベール 時間の庭』国立西洋美術館ほか、2012年、224ページ(ロベール《メレヴィルの城館と庭園》1791年の解説)

啓蒙思想家たちと「散歩」

www.suiseisha.net

机上にずっと置いたままの本を書架に片付けようとして、ふと開いたところに、今の自分にとってまさに天啓となるような一章ーーディドロのルソーの、メルシエのレティフの「散歩」ーーに眼が止まる。

ミシェル・ドゥロン『アンシャン・レジームの放蕩とメランコリー』鈴木球子訳、水声社、2020年の、「散歩」と題された章(254-261ページ)である。

 

ドゥロンはディドロ『ラモーの甥』の冒頭の一節「空が晴れていようろ、いやな天気だろうと、夕方の五時頃パレ=ロワイヤルに散歩に行くのが私の習慣だ」を挙げ、そこに「哲学的実践としての近代的な散歩の確立」(254ページ)を見てとる。ヴェールの中、暗い部屋に閉じこもることへの疑問や、ヴァンセンヌへの投獄の経験から、ディドロは空間と歩行を必要とするようになったというのである。「思考の自由は、彼にとって、歩くことの自由と同じものである」(同上)。

 

一七四六年から彼は、『懐疑主義者の散歩』に着手するが、そこでは思想の論争は場所や環境に適応している。散歩とは、ある教義にこだわることの拒否であり、異なる意見同士のやり取り、諸提案に対する受容性を意味するそれぞれの景色に、視点や考え方の型が対応している。「クマシデの丈の高い生垣を、よく伸びた密生した杉の木々で仕切ることで作られた」ラビリンスは、複雑さや形而上学的考察のメタファーになる。流れる水は感覚のはかなさ、心の移ろいやすさを表す。丘の頂上は、自由な仮説へと誘う。それは、ディドロが「地域哲学」と名付けたものであり、場所と結びつき、普遍性には根を張らないが、移動や彷徨には敏感な哲学である。『懐疑主義者の散歩』は代わる代わる三つの散歩道を引き合いに出すが、それらはテクストの再分割を形成する。茨の散歩道は禁欲主義とキリスト教を拒絶することを可能にし、花の散歩道がこの世の喜びを褒めたたえる一方で、マロニエの散歩道は、理神論やスピノザ主義、無神論唯物論のシステムを表す。それゆえ、討論は茂みの中で交わされる愛を許容する。(上掲書、254-255ページ。)

 

[『ラモーの甥』(1761-74年執筆、死後出版)冒頭の]パレ=ロワイヤルは、もはやこうしたアレゴリーの抽象作業を持つものではない。それはまさに現実の場所なのだが、思考はそこでは依然として、そぞろ歩きや右往左往、 パレの庭園のコンコースであり続ける。(255ページ。)

 このような自由な彷徨、規矩からの解放によって(『ラモーの甥』では、「散歩」と「娼婦を追いかけること」が二大メタファーになっている)、ディドロは「己の核心とも、多くの啓蒙思想についての信念ともほど遠いところに、彼はある種の経験や発明を再発見する」(256ページ)。

ドゥロンは、『1767年のサロン』の「ヴェルネ散歩」にもまた、よく似た自由な散歩への必要性が現れているという。

友人グリムによって急かされて、ディドロは一度ならず、『文学書簡』の予約購読者たちのために、ルーヴルの展覧会評に取り組んだ。次々と、彼は四角いサロン[引用者補記:サロン・カレのこと?]の壁にかけられたキャンバスを叙述し、そして突如疲れてしまう。新鮮な空気、自然、地平線への欲望に捉えられる。(256ページ。)

このような「自由な空間での散歩への欲望」が、よく知られた「ヴェルネ散歩」の冒頭――風光明媚な田園風景への旅と散策――を帰結するというのだ。確かに「ヴェルネ散歩」の語り手(ディドロ自身が仮託されている)は、城館の一室でのきりのない談義に飽いて、「散歩」へと出かけるのである。そこで得られるのは「夢想家の幸福」であるとドゥロンはいう。

散歩に頼ることは、批評家がヴェルネについてできるもっともよい称賛である。この偉大な画家は、不意にサロンの閉ざされた場を開き、想像力をゆさぶり、散歩と執筆を促す。(257ページ。)

Cf. ダニエル・アラスは「ヴェルネ散歩」のディドロによる記述が、「作品そのものを消去する」としている。(Daniel Arasse, « Les Salons de Diderot : le philosophe critique d’art », dans Œuvre complètes de Diderot, t. VII, le Club Français du Livre, xvi.)

懐疑主義者の散歩』、『ラモーの甥』、「ヴェルネ散歩」に続くディドロの「散歩」テマティスムは、『セネカ論(哲学者セネカの生涯と著作,およびクラウディウスとネロの治世論)』(初版1778年刊行)である。

この本は、一冊の本であるが、ところどころ私の散歩に似ている。私は素晴らしい眺めに出くわしたのだろうか? 私は立ち止まって、楽しむ。私は、景色の豊かさや貧しさに従って、歩みを早めたり、緩めたりする。常に自分の夢想に導かれ、私は疲労すること以外のいかなることにも注意を払わない。(上掲書257ページより再引用。)

この「散歩」の章でドゥロンが挙げる事例とその考察は、私自身の仮説――18世紀においては、既存の権力やヒエラルキー(絵画・彫刻アカデミーでの絵画主題に基づく序列など)を外れた場で、「歩行によるテクスト空間」が発生する――とも共振しているように思われる。

ディドロとルソーは、時代に知的自由、道徳的独立としての 散歩をもたらす。トロンシャン医師はすべての社交家たち、出不精で非活動的すぎる病人たちに、散歩を勧める。[…]都市の衛生学が空気の流通と、交易のよき経済制度を求めるのと同様に、個々人の健康は肉体の消耗を必要とする。ルイ・セバスチャン・メルシエとレチフ・ド・ラ・ブルトンヌは、それぞれのやり方で「都会の散歩者の夢想」を作り上げる。(259ページ。)