オンラインシンポジウム「テクストを建てる、イメージを歩く」(9/12)のお知らせ

*9/11登壇者プロフィール、9/6各登壇者の発表概要を追加しました。

「テクストを建てる、イメージを歩く」と題したオンラインシンポジウムを、下記の要領にて開催いたします。
皆様の積極的なご参加をお待ちしております。


【日時】2020年9月12日(土) 14:00-17:30

【形式・申込方法】Zoomミーティングによる開催(要事前登録、300名まで参加可能)
主催者のメールアドレスcomposerlecrepuscule[at]gmail.com([at]を@に替えてください)まで、メール送信してください。
自動返信でZoomミーティングURLとパスコードが通知されます。

【登壇者】桑木野幸司(大阪大学)、小澤京子(和洋女子大学)、佐藤淳一和洋女子大学)、鈴木賢子(東京工芸大学)、桑田光平(東京大学)(登壇順)

【主催】2020年度科学研究費補助金(基盤研究C)研究課題「啓蒙主義時代から19世紀前半までのフランスにおける建築図面・図表の思想史的意義」(研究代表者:小澤京子)
【共催】和洋女子大学日本文学文化学科、和洋女子大学日本文学文化学会

【プログラム】
14:00-14:10 開会挨拶・趣旨説明(小澤)
14:10-14:40 桑木野幸司「アゴティーノ・デル・リッチョの理想庭園論における建築エクフラシスとinventio:模倣と創造のはざまで」
14:40-15:10 小澤京子「歩行によって風景を拓く:ディドロを中心とする18世紀のテクストから」
15:10-15:40 佐藤淳一「『痴人の愛』ナオミというイメージ、テクスト:川口松太郎による劇化を視座に」
(休憩)
15:50-16:20 鈴木賢子「W. G. ゼーバルトにおける都市の記憶術」
16:20-16:50 桑田光平「パリに終わりはないのか?:En quête d’une ville(都市を探して/都市の調査)」
(休憩)
17:00-17:30 総合討論、質疑応答
※登壇者の発表25分+事実確認の質問5分とし、最後に総合的な討論と参加者との質疑応答の時間を30分ほど予定しております。

【発表概要】

桑木野幸司アゴティーノ・デル・リッチョの理想庭園論における建築エクフラシスとinventio:模倣と創造のはざまで

16世紀後半のフィレンツェで活躍したドミニコ会アゴティーノ・デル・リッチョ(1541-98)は、その晩年に、博物学や農学、文芸や宗教的テーマに関する様々な著作を執筆した。なかでも彼の主著ともいうべき『経験農業論』(Agricoltura sperimentata, Firenze, 1595-98)で縷術される王侯のための理想庭園は、同時代の実在する各種庭園を自在に組み合わせつつ、著者の創意をふんだんに加えた豊穣なテクストといえる。本発表ではこの理想園記述を、修辞学の「発想」(inventio)の観点から分析し、モデルの提示と創造プロセスとのあいだの緊張に満ちた関係に、(建築)エクフラシスがどのように関与しているのかを、明らかにしてみたい。

小澤京子「歩行によって風景を拓く:ディドロを中心とする18世紀のテクストから

フランス啓蒙主義時代の哲学者ドゥニ・ディドロは、その絵画批評のなかでたびたび、「絵画のなかに入り込み、歩き回る、あるいは旅をするという体裁で描写する」ことを行なっている。それは、読者をして情景を再構成せしめるための修辞法であった。本発表では、ディドロによる「サロン評」のうち、とりわけ風景画の記述における、絵の中に入り込み、絵の中を歩く描写に着目し、分析と考察を行う。これを、18世紀のテクストとイメージにおける「歩行」のテマティスム――ルソーの「散歩者(promeneur)」、サドや建築家ルドゥー、その他啓蒙主義時代のユートピア紀行のテクストの「旅行者」など――と比較し、そのマッピングを提示することで、テクストとイメージ内に立ち現れる想像的・仮構的な空間の、18世紀における思想史的な特質を明らかにしたい。

佐藤淳一痴人の愛』ナオミというイメージ、テクスト:川口松太郎による劇化を視座に

谷崎潤一郎痴人の愛』のナオミは現在でも小説、漫画、アニメーション、アイドル表象などに翻案され続けている特異な存在である。最も早い翻案である川口松太郎による脚本(1926(大正15)年4月「苦楽」)の検討を通じて、ナオミというキャラクターについてのイメージ生成や彼女を中心に編成されるテクストの機構を分析することを試みたい。『痴人の愛』はまた日本の近小説としては類例がないほど同時代の流行を取り込んだ様相を示しており、文化状況との関連を分析した論考も数多い。本発表に際しては海浜を歩くことについて、先に述べたキャラクター分析の観点から研究史を整理してみることにしたい。

鈴木賢W. G. ゼーバルトにおける都市の記憶術

ゼーバルトの作品の特徴は、現存する建築や都市空間、風景を記述し、そこに固有名、歴史的断片や逸話、虚構的細部を投錨することによって、言語化できない歴史の無意識を探求することにある。本発表では、建築や都市空間を経巡って行う「記憶術」と絡めつつ、トラウマ的な集合的記憶にアプローチするゼーバルトの方法論について考察する。具体的には、『聖灰日の晩餐』におけるジョルダーノ・ブルーノのロンドン道中を記憶術文学の嚆矢と見定めるF. A. イェイツの記憶術論を下敷きにして、『アウステルリッツ』におけるプラハの町めぐりをしたいと思う。さらにこれもイェイツとのつながりで、シェイクスピア由来の「海辺のボヘミア」をキーワードに、ゼーバルト作品が、どのように抑圧されたもの・敗れたものの記憶を想起しようとしているのか検討する。

桑田光平パリに終わりはないのか?:En quête d'une ville(都市を探して/都市の調査)

オスマンの大改造(1853-70)前後から、「モダニティの首都」(デヴィッド・ハーヴェイ)であるパリは、多くの文学・芸術作品を生み出すだけでなく、作品の中でさまざまに描かれてきた。現実のパリとテクストのパリが相互に作用し、神話的とも言える都市のイメージがこうして生み出され、多くの外国人芸術家たちを惹きつけた。ヘミングウェイの「パリに終わりはない」という言葉が端的に示すような、パリの神話的な都市イメージ--芸術を生み出すトポスとしてのパリ--は、現代においてもなお有効なのだろうか。現代文学のいくつかの例を提示しながら、現在のパリがテクストにおいて、あるいはテクストとして、どのように表象されているか見てみたい。

【登壇者プロフィール】

・桑木野幸司(大阪大学 教授) :イタリア初期近代を中心とする建築史・美術史研究、とりわけ記憶術と空間・テクスト・イメージの研究。 著作に『叡智の建築家:記憶のロクスとしての16-17世紀の庭園、劇場、都市』(中央公論美術出版、2013年)、『記憶術全史:ムネモシュネの饗宴』(講談社選書メチエ、2018年)、『ルネサンス庭園の精神史:権力と知と美のメディア空間』(白水社、2019年、サントリー学芸賞受賞)など。

・小澤京子(和洋女子大学 准教授) :フランス18・19世紀の建築構想を中心とする、空間表象と身体表象の研究。 著作に『都市の解剖学:建築/身体の剥離・斬首・腐爛』(ありな書房、2011年)、『ユートピア都市の書法 クロード=ニコラ・ルドゥの建築思想』(法政大学出版局、2017年)など。

佐藤淳一和洋女子大学 准教授) :谷崎潤一郎を中心とする日本近代文学研究。 著作に『谷崎潤一郎 型と表現』(青簡舎、2010年)、論文に「まなざしの生成:「蓼喰う虫」の表現をめぐって(1)」(『和洋國文研究』2014年)、「重なり合う形象:「蓼喰う虫」の表現をめぐって(2)」(同、2015年)など。

鈴木賢子(東京工芸大学埼玉大学フェリス女学院大学非常勤講師 ) :ゼーバルトを中心とする現代ドイツ文学、イメージ分析、歴史・記憶とトラウマ表象の研究。 著作に『アドルノ美学解読:崇高概念から現代音楽・アートまで』(花伝社、2019年、分担執筆)、論文に「W. G. ゼーバルトにおける想起の空間:建築と記憶術」(『埼玉大学紀要』2013年)、「現代アートポピュリズムとどう渡り合えるのか:クリストフ・シュリンゲンズィーフ《オーストリアを愛してくれ》をめぐって」(『ポピュリズムとアート』2020年)など。

・桑田光平(東京大学 准教授): ロラン・バルトをはじめとする文学理論、現代フランス語圏の文学と芸術、場所・風景・環境、テクストとイメージの研究。 著作に『ロラン・バルト 偶発事へのまなざし』(水声社、2011年)、訳書にパスカルキニャール、ジェラール・マセ、ジョルジュ・ペレックル・コルビュジエなど。

【参加に際してのお願い】
・ZoomミーティングURL、パスコードを第三者に伝えたり、ウェブ上に公開したりすることはおやめください。
・このミーティングには300名まで参加可能です。上限を超えることはないとは思いますが、念のためご承知おきください。
・受信映像・音声(画面のキャプチャー含む)や発表資料を再配布すること(ウェブ上へのアップロード含む)はお控えください。

※主催者の保有する機関アカウントの機能制限により、Zoomウェビナーではなくミーティング機能を利用しての開催となります。
ウェビナーによるオンライン学術イベントとは勝手が異なる部分もあろうかと存じますが、ご了承いただければ幸いです。

【当日の進行に際して】
・当日13:30よりZoom上の「待機室」でお待ちいただけます。
・初期設定では、参加者はカメラオフ、音声ミュートになっております。ご質問・ご発言の際にはミュート解除をしてください。
ハウリング防止のため、自身のご発言終了後はかならず再度ミュートしてください。
・ネットワーク帯域節約のため、聴講中はカメラオフでお願いします。
・ご質問・コメントは「チャット」機能でも随時受け付けます。
・不測の事態が発生した場合は、Zoomミーティングを中断する可能性があります。
その際は、主催者のTwitterアカウント https://twitter.com/ozawa_lecture にて連絡・情報共有を行います。

旅としてのテクスト、庭園としてのテクスト 

旅――帰還を念頭に置かない旅だけがもろもろの生の扉をわれわれに開き、真にわれわれの人生を変革させうるものであるにしても、とりわけて高尚にかなった散策、二、三時間で振り出しの繋索へ、わが家の籬のうちへとたちもどる――波乱もなく意外な出来事とてない――ささやかな旅にはより隠密なあやかし、魔法使いが杖を振るにも似た魔力が結びついているものだ。(ジュリアン・グラック「狭い水路」、上掲書229ページ。)

テクストと表象

テクストと表象

  • 作者:小西 嘉幸
  • 発売日: 1992/04/01
  • メディア: 単行本
 

もともと庭というものは駆け抜けるためにあるのではない。そこにあらかじめ敷かれた小径を辿ってゆるやかな足どりで進みながら、くさぐさの出会いや細部の発見を丹念に噛みしめるときはじめて、本当の魅力と秘密を明かしてくれるだろう。(上掲書、91ページ。)

 

「テクストの庭のたっぷりと時間をかけた散策」(小西、上掲書、91ページ)という、書くことと読むことの経験。

風景画と同様に、あるいはそれ以前に、風景式庭園もまた、そのなかを散策することで「ピトレスクな旅」のテクストが紡がれるという性質をもっている。その意味では、「テクストのなかでタブローを描く」系譜に連ねることができるだろう。そこでもまた、「歩行のナラティヴ」が重要となる。

絵画や文学で描かれたアルカディア的風景の再現を目指した風景式庭園は[…]遊歩者は緑陰の小道を進みながら、それぞれに設定された「絵になる」眺めや、文学的、歴史的喚起力をもつモニュメント、あるいはファブリックを「発見」し、楽しむのである。それは一種の「ピトレスクな旅」と言える。

(展覧会図録『ユベール・ロベール 時間の庭』国立西洋美術館ほか、2012年、224ページ(ロベール《メレヴィルの城館と庭園》1791年の解説)

啓蒙思想家たちと「散歩」

www.suiseisha.net

机上にずっと置いたままの本を書架に片付けようとして、ふと開いたところに、今の自分にとってまさに天啓となるような一章ーーディドロのルソーの、メルシエのレティフの「散歩」ーーに眼が止まる。

ミシェル・ドゥロン『アンシャン・レジームの放蕩とメランコリー』鈴木球子訳、水声社、2020年の、「散歩」と題された章(254-261ページ)である。

 

ドゥロンはディドロ『ラモーの甥』の冒頭の一節「空が晴れていようろ、いやな天気だろうと、夕方の五時頃パレ=ロワイヤルに散歩に行くのが私の習慣だ」を挙げ、そこに「哲学的実践としての近代的な散歩の確立」(254ページ)を見てとる。ヴェールの中、暗い部屋に閉じこもることへの疑問や、ヴァンセンヌへの投獄の経験から、ディドロは空間と歩行を必要とするようになったというのである。「思考の自由は、彼にとって、歩くことの自由と同じものである」(同上)。

 

一七四六年から彼は、『懐疑主義者の散歩』に着手するが、そこでは思想の論争は場所や環境に適応している。散歩とは、ある教義にこだわることの拒否であり、異なる意見同士のやり取り、諸提案に対する受容性を意味するそれぞれの景色に、視点や考え方の型が対応している。「クマシデの丈の高い生垣を、よく伸びた密生した杉の木々で仕切ることで作られた」ラビリンスは、複雑さや形而上学的考察のメタファーになる。流れる水は感覚のはかなさ、心の移ろいやすさを表す。丘の頂上は、自由な仮説へと誘う。それは、ディドロが「地域哲学」と名付けたものであり、場所と結びつき、普遍性には根を張らないが、移動や彷徨には敏感な哲学である。『懐疑主義者の散歩』は代わる代わる三つの散歩道を引き合いに出すが、それらはテクストの再分割を形成する。茨の散歩道は禁欲主義とキリスト教を拒絶することを可能にし、花の散歩道がこの世の喜びを褒めたたえる一方で、マロニエの散歩道は、理神論やスピノザ主義、無神論唯物論のシステムを表す。それゆえ、討論は茂みの中で交わされる愛を許容する。(上掲書、254-255ページ。)

 

[『ラモーの甥』(1761-74年執筆、死後出版)冒頭の]パレ=ロワイヤルは、もはやこうしたアレゴリーの抽象作業を持つものではない。それはまさに現実の場所なのだが、思考はそこでは依然として、そぞろ歩きや右往左往、 パレの庭園のコンコースであり続ける。(255ページ。)

 このような自由な彷徨、規矩からの解放によって(『ラモーの甥』では、「散歩」と「娼婦を追いかけること」が二大メタファーになっている)、ディドロは「己の核心とも、多くの啓蒙思想についての信念ともほど遠いところに、彼はある種の経験や発明を再発見する」(256ページ)。

ドゥロンは、『1767年のサロン』の「ヴェルネ散歩」にもまた、よく似た自由な散歩への必要性が現れているという。

友人グリムによって急かされて、ディドロは一度ならず、『文学書簡』の予約購読者たちのために、ルーヴルの展覧会評に取り組んだ。次々と、彼は四角いサロン[引用者補記:サロン・カレのこと?]の壁にかけられたキャンバスを叙述し、そして突如疲れてしまう。新鮮な空気、自然、地平線への欲望に捉えられる。(256ページ。)

このような「自由な空間での散歩への欲望」が、よく知られた「ヴェルネ散歩」の冒頭――風光明媚な田園風景への旅と散策――を帰結するというのだ。確かに「ヴェルネ散歩」の語り手(ディドロ自身が仮託されている)は、城館の一室でのきりのない談義に飽いて、「散歩」へと出かけるのである。そこで得られるのは「夢想家の幸福」であるとドゥロンはいう。

散歩に頼ることは、批評家がヴェルネについてできるもっともよい称賛である。この偉大な画家は、不意にサロンの閉ざされた場を開き、想像力をゆさぶり、散歩と執筆を促す。(257ページ。)

Cf. ダニエル・アラスは「ヴェルネ散歩」のディドロによる記述が、「作品そのものを消去する」としている。(Daniel Arasse, « Les Salons de Diderot : le philosophe critique d’art », dans Œuvre complètes de Diderot, t. VII, le Club Français du Livre, xvi.)

懐疑主義者の散歩』、『ラモーの甥』、「ヴェルネ散歩」に続くディドロの「散歩」テマティスムは、『セネカ論(哲学者セネカの生涯と著作,およびクラウディウスとネロの治世論)』(初版1778年刊行)である。

この本は、一冊の本であるが、ところどころ私の散歩に似ている。私は素晴らしい眺めに出くわしたのだろうか? 私は立ち止まって、楽しむ。私は、景色の豊かさや貧しさに従って、歩みを早めたり、緩めたりする。常に自分の夢想に導かれ、私は疲労すること以外のいかなることにも注意を払わない。(上掲書257ページより再引用。)

この「散歩」の章でドゥロンが挙げる事例とその考察は、私自身の仮説――18世紀においては、既存の権力やヒエラルキー(絵画・彫刻アカデミーでの絵画主題に基づく序列など)を外れた場で、「歩行によるテクスト空間」が発生する――とも共振しているように思われる。

ディドロとルソーは、時代に知的自由、道徳的独立としての 散歩をもたらす。トロンシャン医師はすべての社交家たち、出不精で非活動的すぎる病人たちに、散歩を勧める。[…]都市の衛生学が空気の流通と、交易のよき経済制度を求めるのと同様に、個々人の健康は肉体の消耗を必要とする。ルイ・セバスチャン・メルシエとレチフ・ド・ラ・ブルトンヌは、それぞれのやり方で「都会の散歩者の夢想」を作り上げる。(259ページ。)

 

街道手帖 (シュルレアリスムの本棚)

街道手帖 (シュルレアリスムの本棚)

 

 この本を構成するメモが扱う街道は、もちろん地上の風景を横切り、つなぐ街道である。しかし、それはときには夢の街道であり、しばしば記憶の街道でもある。その記憶は私の記憶であるが、集合的な記憶、ときにはそのもっとも遠いもの、すなわち歴史でもある。

(上掲書、1ページ、著者による前書き)

 

これもふと思い浮かんだこと。川端康成の『片腕』に、テオフィル・ゴーティエの『ミイラの足』の影響はなかったのだろうか?(CiNiiやGoogle Scholarも含め、ざっとインターネット検索した限りでは情報が出てこない) ゴーティエの身体断片が(亡霊という形で)たやすく全体性を回復するのに対して、川端の「片腕」は断片のままであり続けるという決定的な違いはあるけれども。

断片となった身体(ミイラの足、『ポンペイ夜話』の溶岩に捺された女性の胸部)の持ち主が、美女の亡霊となって主人公の元を訪れるというのがゴーティエの「幻想」だから、それはネクロフィリアや人形愛、断片や痕跡へのフェティシズムではないだろう(ネクロフィリアや身体断片への愛好ならば、それが生きているかのような美女となる必要はなくて、むしろ屍体そのもの、断片そのものに留まらなくてはならないはずだ)。

ゴーティエと川端の違いという以上に、小ロマン派の時代と、新感覚派を生み出すような無機的で神経症じみた時代との間の、心性そのものの違いのようにも思われる。

Au château d’Argol

 

シルトの岸辺 (岩波文庫)

シルトの岸辺 (岩波文庫)

 
アルゴールの城にて (岩波文庫)

アルゴールの城にて (岩波文庫)

 

最近、ジュリアン・グラックによるテクストの「建築性」のようなものについて考えている。「建築(architecture)」のような、人為的で明確な構造をもつものというよりは、岩山のような砦(その中の海図室)、全体が崩落しつつある廃墟の街、ヴェッツァノの入江の真っ白な断崖、岩と岩の隙間に穿たれた、洞窟にも(しかし頭上は開いている)地下室(クリプト)にも喩えられる空間(『シルトの岸辺』)、あるいはゴシック・ロマンスめいた城と森(『アルゴールの城にて』)といったもの。人工物が圧倒的な自然と融合しているような、明瞭な構造がむしろテクストの語りのなかで失われていくような空間である。

『シルトの岸辺』に登場する架空都市オルセンナはヴェネツィアを連想させるけれども、例えばカルヴィーノ『見えない都市』で語られる想像上のヴェネツィアの、杭の上に建てられたモンタージュ都市といった浮遊的な軽やかさ(作中では、マルコ・ポーロが語るたびに、要素が入れ替わってゆく)と比べると、はるかにずっと重々しくて、砦や洞窟や入江といった他のモティーフ、大地に穿たれた地下墓室(クリプト)的な空間と連続しているように思われる。

場所とテクスト、空間とテクストといえばプルーストがまず思い浮かぶが、しかしプルーストの空間の移動とある種の時間性が結びついたような要素は、グラックにはほとんど無いような気がする。

 

『アルゴールの城』白水社版に付された安藤元雄の訳者あとがきによれば、グラックのテクストは以下のような性質をもつという。

 

[…]グラックを真に彼自身たらしめているのは、何よりもまず、その特異な書法であるように私には思われる。というよりも、この書法そのものが作品の真の主題を担っているのだから、もはやそれは単なる修辞論や文体論の枠をはみ出して、むしろ話法論や物語論のレヴェルで検討さるべきものとなっているのではあるまいか。[…]これらのおびただしい比喩が決して単なる作者の恣意でないことは、「遊歩道」の章の終わり近く、アルベールがエルミニアンの容態を気遣いながら見る夢の記述の部分をひもとけば明らかになる。ここでは誰しも、このような書法がまさに夢の記述にふさわしい、必然的な性格のものであることを悟るだろう。とすれば、この物語全体が、一連の悪夢のようなものとして読まれていいのであり、そう読まれたとき、この特異な城館を舞台にした陰惨な物語が、恣意による弛緩どころか、むしろ宿命の避けがたい必然のもたらす緊張に満ちた、異様に澄み切ったものであることが見えてくるはずである。

 その緊張は、もの言わぬ自然のたたずまいと人間の営みとの間を、まるで稲妻のように最短距離で往復する直喩によって示される。言ってみれば、宿命のドラマを書法それ自体によって表現することこそ、グラックがこの作品を書いたときの本当の狙いだったのではあるまいか。

(訳者・安藤元雄による「解説」、上掲『アルゴールの城にて』194-195ページ。)

 

 

 

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シャガールの描く浮遊的な情景に惹かれる。夜、あるいはいつともつかない不分明の時間、人間の眼をもつ動物、深閑とした色彩どうしの混じり合い、重力を免れて空に浮くこいびとたち。地面から、魯鈍な現実法則から解放されていることの、虚ろな自由。