ファッションと哲学   16人の思想家から学ぶファッション論入門

ファッションと哲学 16人の思想家から学ぶファッション論入門

  • 作者: アニェス・ロカモラ,アネケ・スメリク,蘆田裕史,安齋詩歩子,大久保美紀,小林嶺,西條玲奈,関根麻里恵,原山都和丹,平芳裕子,藤嶋陽子,山内朋樹
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2018/12/15
  • メディア: 単行本
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原題は「ファッションを通して思考する:主要な理論家たちへの入門(Thinking through Fashion: A Guide to Key Theorists)」である。『ファッションと哲学』という邦題には、後述する通り、おそらく日本固有の「ファッションと哲学/ファッションの哲学」の言説史への目配せも込められているのであろう。本書を通読してみると、この書は、原題の通り「ファッションを通して、理論を用いて思考する訓練を行う」ものであると同時に、「理論を道具に、ファッションを思考する」ものでもあることが分かる。

本書は、16名の思想家たちの理論から引き出しうるファッションの分析を、英語圏を中心とする計16人の執筆者が紹介するものであり、各々の章はそこで扱われる思想家の生年順に並べられている。取り上げられる「思想家」(原題ではtheorist)には、哲学者から社会学者までのグラデーションがある。グラデーションという言葉を使うのは、もちろんそこに厳密で相互排除的な線引きを設定することなど、不可能なうえにおそらく無意味でもあるからだ。

最初の章に登場するのは、マルクス(ファッションと資本主義)である。次いでフロイト精神分析)、ジンメル社会学)、ベンヤミン(モダニティ)、バフチン(グロテスク、カーニヴァル)、メルロ=ポンティ現象学と新しい唯物論)、バルト(記号学、テクスト分析)、ゴフマン(文化の社会学)、ドゥルーズ(襞、器官なき身体)、フーコー(ボディ・ポリティクス)、ルーマンボードリヤールブルデューデリダ脱構築)、ラトゥール(ANT)と来て、バトラー(パフォーマティヴィティ)で終わるという構成だ。(ちなみに、1996年(実に23年前!)に刊行された『AERA MOOK ファッション学のみかた。』の「ファッション論の先駆者たち」で取り上げられている12名の論者と比べると、重複しているのはジンメルベンヤミン、バルト、ドゥルーズの4名である。)

各々の章は、取り上げられている思想家の理論によって、また執筆者によって、その方向性はまちまちである。一言で「ファッション」と言っても、集合的な社会現象や文化を扱うもの、個別のデザイナーによるデザインを扱うもの、個人と着ること・装うことの関係を問うものなどがあり、また「理論を援用してファッションを分析してみせる」章もあれば、「ファッションを例に思想家の理論を解説する」というスタンスの章もある。これはとりもなおさず、「ファッション」という語が持つ多義性と曖昧さを示すものであり、また、個々の理論がどのような場合に分析の道具として有用となるのかが、それぞれに異なることの証左でもあるだろう。むしろこの多様性や重層性こそが、「ファッション」を思考するうえでの賭金であり、さらには面白さなのではないだろうか。

 

ファッションをとりまく状況には、この2010年代に入って大きな変動があった。エシカルであることへの要請(グローバリズム新自由主義下での、労働における搾取構造への注目、自然環境や動物の苦痛への配慮など)、ファストファッションの席巻(かつての作家論的デザイナー研究や「記号消費」概念の失効)、ファッションを取り巻くメディアの変容(雑誌からSNSヘ)、テクノロジーの変容がもたらした新たなマテリアルやスペクタクルの可能性などである。ジェンダーや身体と性をめぐる認識はラディカルに変わったが、同時にまた、私たちの身体へと作用する権力のあり方も、様々に変化しつつある。

このような中で、本書は、思考のための基本的な道具立と準拠枠組みの選択肢を概観し、さらにはその「使い方」の実践的な例を知るのに役立つであろう。

 

監訳者あとがきにもあるように、日本の読者にとって、「ファッションと哲学」というテーマ、あるいは「哲学の理論を援用してファッションを思考する」というアプローチは、けっして目新しいものではない。私自身、大学に入学した1990年代半ば以降に、当時盛んだった「哲学的ファッション論」に興味を持ち、大学院修士課程に入学した際には、「衣服と皮膚感覚と身体意識」が研究テーマであった(その後、様々な要因により、メインの研究テーマは「ファッションないし衣服」ではなくなるのだが、そのこと自体が、監訳者も書いている通り、学術の世界でファッションを扱うことの困難さの帰結でもある)。あとがきで言及される鷲田清一(主に現象学精神分析的な身体論に立脚したもの)は言うに及ばず、1990年代には「ファッションと身体と〈私〉」をテーマとする思索が一種ブームの様相を呈し、たとえば『現代思想』や『イマーゴ』、『エピステーメー』といった雑誌もこぞって身体や皮膚、顔といったテーマの特集を設けていた。そこでの問題意識や分析対象は、身体改造なども含む広義の「ファッション」と地続きのものであったと言ってよい。文化社会学的なアプローチという点では、ジョアン・フィンケルシュタイン『ファッションの文化社会学』(原著1996年)の邦訳が1998年に刊行されているが、これもまた、当時の「ファッションを理論的に思考する」という流れに位置づけられるだろう。1999年には京都服飾文化研究財団の企画で、衣服と身体の関係を思索的に問うた「身体の夢:ファッションOR 見えないコルセット」展が開催されたし、メトロポリタン美術館ファッション部門のディレクターであったハロルド・コーダや、ニューヨーク工科大学のヴァレリー・スティールらによる、いわば思索的なファッション論も、日本にもある程度は流入してきていたと記憶している。

 

その後の日本にも、「ファッションを思考する」流れはあった。2010年代初頭には「ファッション批評元年」とも言うべきムーヴメントが起こり、『ファッションは語り始めた』シリーズやファッション批評誌『vanitas』(当初の1号のみ『fashionista』)の刊行など、ファッションをクリティカルに思考し語るための「批評言語」の模索がなされていた(はずである)。しかし、その後の動向が見えづらくなってきたのではないか、と思っていたところに、今回の『ファッションと哲学』邦訳が刊行されたのだ。監訳者の蘆田裕史氏は、「ファッション批評元年」の立役者の一人であり、現在も学術の世界での活動に加えて、『vanitas』の主幹や「コトバトフク」の経営など、ファッション批評の可能性の開拓に精力的に取り組んできた人物である。また、個々の章の翻訳を手がけているのは、多くは「若手」と呼ばれる研究者たちであり、いわばポスト「ファッション批評元年」の世代に当たる。この書を思考のための基盤として、あるいは起爆剤として、次の10年間にも新たな「ファッションを思考する」流れが起こり、そして今度こそは定着することを、一読者として願っている。

活人画の時間:テクスト、映画、写真

 

勅使河原宏の世界 DVDコレクション

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箱男 (新潮文庫)

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ふとこんなことを考えた。写真じみた静止画像が時折挿入される映画版『他人の顔』(勅使河原宏監督、安部公房原作・脚本)は、文章の間に写真が挟まれる安部公房の小説『箱男』と呼応しているのではないか、とふと考えた。映画とテクスト/書籍という媒体の違いはあるが、いずれもクロノロジカルに展開する物語の時間が、静止画によって一瞬停止する。

それに対して、活人画を主題にした映画では、『リコッタ』(パゾリーニ監督、『RoGoPaG』所収)であれ『ロベルトは今夜』(ピエール・ジュッカ監督、クロソウスキー原作)であれ、『カラヴァッジョ』(デレク・ジャーマン監督)であれ『パッション』(ゴダール監督)であれ、ポーズ完成の瞬間を静止画として、つまり映画内写真として写すことは徹底して禁じ手となっている。だから、映像の中では活人画の完成する瞬間は永遠に訪れない。常に映像は動き続け、時間は流れ続けるからだ。それゆえに、「活人画を撮るメタ映画」(『リコッタ』、『パッション』)は、失敗に終わることを初めから宿命づけられているのだ。

ロゴパグ Blu-ray

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パッション [Blu-ray]

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ジャーマンの『カラヴァッジオ』、10年くらい前にはこういう分かりやすく「絵画的」な映画が好きだったが、今観るといろいろと突っ込みどころが。そのほとんどは、「活人画の生成過程を動画に収める」ことに由来しているのではないかという予感がある。当然ながら絵画に描かれるのは「一瞬を静止させた」場面で、特にカラヴァッジョは劇的でダイナミックな動作の一瞬を、あたかもシャッタースピードの速いカメラのように捉えた作品も多いので、そこに時間の持続や生身の身体や運動が持ち込まれると、「絵画作品の特権性」みたいなものは崩壊してしまう。退屈したモデルたちがあくびをしたり居眠りしたり、絵画用の静止したポーズから解放されて一斉にだらけ始めたりする場面は、「活人画映画」の綻びを自覚した上でのアイロニーにも見える。画家が眼を向ける間だけモデルたちが真面目に静止してポーズをとる様は、もはや「だるまさんが転んだ」のようで笑ってしまう。屍体を用いた活人画も二回登場する。溺死した女性の亡骸をモデルに《聖母の死》を描く場面と、画家自身の死せる身体が《キリスト埋葬》の活人画を構成する場面と。動かない屍体は活人画に最適なのだが、映画で演ずるのは生命ある俳優だから、例えばカラヴァッジョ役の俳優の目蓋が少し震えているのが見えてしまったりする。つまりここでは、活人画と映画の双方が前提としているフィクションが、俳優の「生身」によって綻んでいるのではないかと思う。

映画版『ロベルトは今夜』については、監督ピエール・ジュッカが映画スチル写真家でもあったこと「活人画映画」との逆説的な(?)関係や、クロソウスキーステレオタイプ論やシミュラクル論(さらにはヴァールブルクの情念定型概念)と「固まるポーズ」との関係を、もう少し突き詰めて考えてみたい。

参考文献メモ:『カラヴァッジョ鑑』収録の篠原資明論考、岡田温司『映画は絵画のように』、ボニゼール『歪曲するフレーム』、また田中純『イメージの自然史』と『都市の詩学』のクロソウスキーへの言及部分。

死者の固有名について

 人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。

石原吉郎『望郷と海』ちくま学芸文庫Kindle 版、2002年、No. 38。)

 

いわば一個の符号にすぎない一人の名前が、一人の人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、一個のまぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからにほかならない。ここでは、疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。

(石原、上掲書、No. 49。)

 

私は広島について、どのような発言をする意志ももたないが、それは、私が広島の目撃者でないというただ一つの理由からである。しかしそのうえで、あえていわせてもらえるなら、峠三吉の悲惨は、最後まで峠三吉ただ一人の悲惨である。この悲惨を不特定の、死者の集団の悲惨に置き代えること、さらに未来の死者の悲惨までもそれによって先取りしようとすることは、生き残ったものの不遜である。それがただ一人の悲惨であることが、つぐないがたい痛みのすべてである。さらに私は、無名戦士という名称に、いきどおりに似た反撥をおぼえる。無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである。不幸にして、そのひとつひとつを確かめえなかったというのであれば、痛恨をこめてそのむねを、戦士の名称へ併記すべきである。

(石原、上掲書、No. 139-146。)

 

死者の身元がわからなくては、死者を記念することはできない。うたげの客たちの席順を正確に記憶していたシモニデスは、識別できないほど損傷した遺体のすべてに、その名を返してやることができた。こうして身元が確認できたので、死者の身内の者たちは、彼らをたたえ、しかるべく埋葬し、自分たちが正しい死者を嘆いていることに確信を持つことができた。[...]この伝説によってシモニデスの業績は、死と破壊を超克する人間の記憶の力として永遠にとどめられた。

(アライダ・アスマン『想起の空間』安川晴基訳、水声社、2007年、51ページ。)

 

 無名戦士の墓と碑、これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない。これらの記念碑は、故意にからっぽであるか、あるいはそこにだれがねむっているのかだれも知らない。そしてまさにその故に、これらの碑には、公共的、儀礼的敬意が払われる。これはかつてまったく例のないことであった。[…]これらの墓には、だれと特定しうる死骸や不死の魂こそないとはいえ、やはり鬼気せまる国民的想像力が満ちている。(これこそ、かくも多くの国民が、その不在の国民的帰属[ルビ:ナショナリティを明示する必要をまったく感じることのない理由である。〔そこには〕ドイツ人、アメリカ人、アルゼンチン人……以外、だれがねむっていよう。)[…]一方、ナショナリズムの想像力が死と不死に関わるとすれば、このことは、それが宗教的想像力と強い親和性を持っていることを示す。

ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体:ナショナリズムの起源と流行』増補版、白石さや・白石隆訳、NTT出版、1997年、32ページ。)

 

出張報告より

6月8日(土)
9:00〜:自宅最寄り駅より出発、13:00過ぎに最初の目的地である京都大学総合博物館に到着。
13:00〜15:00:「タイムライン:時間に触れるためのいくつかの方法」展を見学、たまたま開催中であった展覧会関連のシンポジウムの一部(アーツ前橋館長・住友文彦氏の発表)も聴く。
15:20〜:京都大学最寄り駅を経ち、関西大学梅田サテライトへ。
16:40〜18:40:国際カンファレンス「Posthumanities in Asia」の基調講演、ロージ・ブライドッティ氏による
「今日の人文学における人間とは何か(What is the Human in the Humanities Today)」を聴く。
19:00:ホテルにチェックイン

6月9日(日)
9:00:ホテルをチェックアウト
9:30〜10:10:国際カンファレンス「Posthumanities in Asia」に参加し、毛利嘉孝氏によるレクチャー「アジアのポスト人文主義を考える(Considering Posthumanities in Asia)」を聴く。
10:20〜12:00:口頭発表セッション「ジェンダー」に参加、現代アートやハリウッドSF映画、日本のSF小説に登場するサイボーグやミュータントの表象とジェンダークィアネスについて、哲学的に考察した発表3本を聴く。
13:00〜13:40:アネケ・スメリク氏によるレクチャー「〈静寂〉、イリス・ヴァン・ハーペンのポストヒューマンデザイン('Seijaku': The Posthuman Design of Iris van Herpen)」を聴く。
13:50〜15:30:口頭発表セッション「身体」に参加、身体改造やフィリピンのSFにおけるクローン描写、日本のマンガにおける臓器移植と感染の描写、furry(獣人の融合したキャラクター)を題材に、ポストヒューマンの哲学と倫理学を思考する発表4本を聴く。
16:00〜17:40:口頭発表セッション「理論」に参加、レヴィナスデリダの思想における動物の位置づけの違い、バタイユ唯物論と「新しい唯物論」の比較、「想像力」の問題について、および「主体性/主観性」の問題について、哲学的考察を行なった発表4本を聴く。
18:00〜:関西大学梅田サテライトを出発、大阪駅より帰路につく。

京都大学総合博物館の「タイムライン」展は、展示作品そのものが興味深かったのはもちろんだが、大学博物館という様々な条件に限界のある場で、いかに「見せ、考えさせる」展示を作り上げるのかという観点でも工夫されたものであり、また、最新技術を用いた作品の化学的分析も「作品を構成している時間的プロセス」として展示している点も示唆的であった。

2日間にわたる国際カンファレンス「Posthumanities in Asia」では、最近日本でも著作の邦訳が刊行され話題となっているブライドッティ氏とスメリク氏による講演をはじめ、人文学における思考と実践の最前線を捕捉することができ、たいへん刺激を受け、また勉強になった。国際的な学術の場での共通言語である「ノンネイティヴによる英語」に、多少なりとも慣れることができたことも、今回の収穫の一つである。

遺棄された場所について

机周りの片付け中、書棚に戻そうとしてふと中を開いたところ、「abandoned places」論の参考になりそうな章を見つけた。「「空隙都市」東京」と題されたこの論考(初出『JA』1992年)では、経済成長の結果として東京に生まれた特異な領域を「空隙」と名指している。

建築零年

建築零年

 

 

 建物の「空隙」を挟む立面は、道路側の飾られたファサードとは裏腹にまったく何のデザイン的処理もなされず、そこには決まって給排水の配管や空調機が便宜のままに乱雑に露出し、「空隙」のゾーンは滅多に掃除されることもなく放置され、ゴミの堆積するにまかされている。

 この、「人間」からも「空間」からも見放され、打ち捨てられた――あるいは解放された――無数の「空隙」こそ、土地占有の神話と、経済の高度成長とが手を携えて東京に産み落とした比類のない都市的遺産――基盤――にほかならない。 

(上掲書、148ページ)

 

  私が注目するのは、「空間」から排除され、抑圧され、あるいは放置された領域の発見であり肯定である。この領域はいまだ名付けられてはいないが、明らかに「空間」とは異なるものとして、とりあえず仮に「空地」「空洞」「空隙」と呼ぶことにする。(上掲書、151ページ)

 

ゴールデン・ウィークもそろそろ終わりが見え始めた頃、アーツ千代田で開催中のシド・ミード展に行ってきた。
https://sydmead.skyfall.me

そのうち(いつ?)書こうと思っているのが、日本の1980年代サブカルチャーにおける廃墟モティーフの話なので、映画『ブレードランナー』の美術をはじめ、「サイバーパンク」ブームの牽引者だったミードにも触れておこうかと。

会場にはARを利用した展示の仕掛けもあり。すべて手書きと手塗りによるハイパーリアリズムの画力がまずは凄まじく(若描きとその20-30年後の作品を並べても、画風も技法もほとんど変わっていないのも凄い)、また「そうそう、私が物心ついたくらいの頃の「未来のイメージ」って、こんな感じだったよね」というノスタルジアもあって、さほどミードについて予備知識がなくても楽しめた。

明暗のコントラストが強く、宇宙空間とも朝焼けとも夕焼けともつかない不思議な色合いの空の表現も、1980年代的というか、ハイパーリアリズムと合わせて、ラッセンにも通じるものがあるように見える。

 会場には随分と若い人が多いと思ったら、ミードは「∀ガンダム」のメカニック・デザインも手掛けていたと知る。(照明落下事故がニュースになった六本木のディスコ「トゥーリア」は、シド・ミードによるインテリア・デザインが売りだったらしい、というトリヴィアルな知識はあっても、彼が日本の90年代アニメに関わっていたことは知らなかった。)

肝心の「1980年代のサイバーパンクブーム」については、実はさほど収穫がなかったのだが、こういうメカニック・マニアの世界には普段あまり触れる機会がないこともあり、新鮮で面白かった。

 

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アラン・レネ『去年マリエンバードで』を観る。冒頭のナレーションとカメラワークからして、圧倒的な「建築映画」だ。壁面を伝うロカイユ模様や格間の装飾のクロースアップ、たびたび映し出される庭園の透視図、鏡の間、そして整形庭園。ドラマを繰り広げる人間たち以上に、建築物と庭園が主人公にみえる。

 

鏡の効果。

 

鏡越しの会話(果たして二人の視線は交わっているのだろうか?)

 

整形庭園、シンメトリー。