■
出張報告より
6月8日(土)
9:00〜:自宅最寄り駅より出発、13:00過ぎに最初の目的地である京都大学総合博物館に到着。
13:00〜15:00:「タイムライン:時間に触れるためのいくつかの方法」展を見学、たまたま開催中であった展覧会関連のシンポジウムの一部(アーツ前橋館長・住友文彦氏の発表)も聴く。
15:20〜:京都大学最寄り駅を経ち、関西大学梅田サテライトへ。
16:40〜18:40:国際カンファレンス「Posthumanities in Asia」の基調講演、ロージ・ブライドッティ氏による
「今日の人文学における人間とは何か(What is the Human in the Humanities Today)」を聴く。
19:00:ホテルにチェックイン
6月9日(日)
9:00:ホテルをチェックアウト
9:30〜10:10:国際カンファレンス「Posthumanities in Asia」に参加し、毛利嘉孝氏によるレクチャー「アジアのポスト人文主義を考える(Considering Posthumanities in Asia)」を聴く。
10:20〜12:00:口頭発表セッション「ジェンダー」に参加、現代アートやハリウッドSF映画、日本のSF小説に登場するサイボーグやミュータントの表象とジェンダーやクィアネスについて、哲学的に考察した発表3本を聴く。
13:00〜13:40:アネケ・スメリク氏によるレクチャー「〈静寂〉、イリス・ヴァン・ハーペンのポストヒューマンデザイン('Seijaku': The Posthuman Design of Iris van Herpen)」を聴く。
13:50〜15:30:口頭発表セッション「身体」に参加、身体改造やフィリピンのSFにおけるクローン描写、日本のマンガにおける臓器移植と感染の描写、furry(獣人の融合したキャラクター)を題材に、ポストヒューマンの哲学と倫理学を思考する発表4本を聴く。
16:00〜17:40:口頭発表セッション「理論」に参加、レヴィナスとデリダの思想における動物の位置づけの違い、バタイユの唯物論と「新しい唯物論」の比較、「想像力」の問題について、および「主体性/主観性」の問題について、哲学的考察を行なった発表4本を聴く。
18:00〜:関西大学梅田サテライトを出発、大阪駅より帰路につく。
京都大学総合博物館の「タイムライン」展は、展示作品そのものが興味深かったのはもちろんだが、大学博物館という様々な条件に限界のある場で、いかに「見せ、考えさせる」展示を作り上げるのかという観点でも工夫されたものであり、また、最新技術を用いた作品の化学的分析も「作品を構成している時間的プロセス」として展示している点も示唆的であった。
2日間にわたる国際カンファレンス「Posthumanities in Asia」では、最近日本でも著作の邦訳が刊行され話題となっているブライドッティ氏とスメリク氏による講演をはじめ、人文学における思考と実践の最前線を捕捉することができ、たいへん刺激を受け、また勉強になった。国際的な学術の場での共通言語である「ノンネイティヴによる英語」に、多少なりとも慣れることができたことも、今回の収穫の一つである。
■
遺棄された場所について
机周りの片付け中、書棚に戻そうとしてふと中を開いたところ、「abandoned places」論の参考になりそうな章を見つけた。「「空隙都市」東京」と題されたこの論考(初出『JA』1992年)では、経済成長の結果として東京に生まれた特異な領域を「空隙」と名指している。
建物の「空隙」を挟む立面は、道路側の飾られたファサードとは裏腹にまったく何のデザイン的処理もなされず、そこには決まって給排水の配管や空調機が便宜のままに乱雑に露出し、「空隙」のゾーンは滅多に掃除されることもなく放置され、ゴミの堆積するにまかされている。
この、「人間」からも「空間」からも見放され、打ち捨てられた――あるいは解放された――無数の「空隙」こそ、土地占有の神話と、経済の高度成長とが手を携えて東京に産み落とした比類のない都市的遺産――基盤――にほかならない。
(上掲書、148ページ)
私が注目するのは、「空間」から排除され、抑圧され、あるいは放置された領域の発見であり肯定である。この領域はいまだ名付けられてはいないが、明らかに「空間」とは異なるものとして、とりあえず仮に「空地」「空洞」「空隙」と呼ぶことにする。(上掲書、151ページ)
■
ゴールデン・ウィークもそろそろ終わりが見え始めた頃、アーツ千代田で開催中のシド・ミード展に行ってきた。
https://sydmead.skyfall.me
そのうち(いつ?)書こうと思っているのが、日本の1980年代サブカルチャーにおける廃墟モティーフの話なので、映画『ブレードランナー』の美術をはじめ、「サイバーパンク」ブームの牽引者だったミードにも触れておこうかと。
会場にはARを利用した展示の仕掛けもあり。すべて手書きと手塗りによるハイパーリアリズムの画力がまずは凄まじく(若描きとその20-30年後の作品を並べても、画風も技法もほとんど変わっていないのも凄い)、また「そうそう、私が物心ついたくらいの頃の「未来のイメージ」って、こんな感じだったよね」というノスタルジアもあって、さほどミードについて予備知識がなくても楽しめた。
明暗のコントラストが強く、宇宙空間とも朝焼けとも夕焼けともつかない不思議な色合いの空の表現も、1980年代的というか、ハイパーリアリズムと合わせて、ラッセンにも通じるものがあるように見える。
会場には随分と若い人が多いと思ったら、ミードは「∀ガンダム」のメカニック・デザインも手掛けていたと知る。(照明落下事故がニュースになった六本木のディスコ「トゥーリア」は、シド・ミードによるインテリア・デザインが売りだったらしい、というトリヴィアルな知識はあっても、彼が日本の90年代アニメに関わっていたことは知らなかった。)
肝心の「1980年代のサイバーパンクブーム」については、実はさほど収穫がなかったのだが、こういうメカニック・マニアの世界には普段あまり触れる機会がないこともあり、新鮮で面白かった。
■
遺棄された場所についての覚書
荒れ地の語源についての見解は共通している。1872年刊行の『19世紀世界大辞典』には「グリムが「耕作地」に関係づけた俗ラテン語のfriscumに由来。一度は耕したが、「損なわれ」、駄目になってしまった畑を指す。モリはゲール諸語で放棄された耕地を意味するfrithおよびfritheを提案した」とある。また1983年刊の『ル・プティ・ロベール』では「女性名詞、1251年、古フランス語や方言のfrècheのヴァリアント。中世オランダ語で「新しい」を意味するversh」と説明されている。
荒れ地という語はほとんどの場合、耕されなくなった土地や、耕されなくなるだろう土地に適用される。この言葉は、野生の丘陵地であれ、高山の切り立った草原であれ、エリンギウムでいっぱいの砂丘の後背地であれ、「自然」と名のつく他のどんな環境を指すためにも使われることはない。そうではなくて、荒れ地はそこから自然も農業も締め出してしまって、ここでもっと良いものをつくれると仄めかしているのだ。
(上掲書、23ページ)
さらにクレマンは、2000年にフランス建築研究所で開催された展覧会に寄せられたテクストの抜粋を、自らの考えを示すものとして記している。クレマンによれば「放棄地」とは、生物進化のプロセスにおける生物の営みに満ちた時間であり、再生する土地であって、「見捨てられた土地」という側面からは捉えない、というのが彼らのアプローチである。(以下で引用するのは、「放棄地」についての現象記述、事実認定のレベルでの定義であり、クレマン自身がこのような定義に何か可能性を見出している、というわけではない。)最終的に彼は、「休耕地再生林」という語を挙げ、それが「あらゆる放棄地が森を生み出せることを示す包括的な語彙」としている(上掲書、158ページ)。
放棄地
・その身分
「自然」を冠する空間とは対照的に、放棄地には公認された身分はいっさい与えられていない。放棄地は保護区でもないし、もはや休耕地でもなく、そういった申告された管理システムにまったく対応していない。
(上掲書、157ページ)